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幼少の記憶

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2015年8月 9日 (日)

鉄工丸事件

鉄工丸事件

鉄工丸事件

2013年5月 6日 (月)

少年時代の記憶

県立工業学校(旧制)動員命令は地獄の記憶

尋常小学校の隣に県立工業学校(旧制)があった。小学校を卒業したらこの学校に入学しようと六年生になったころから思っていた。裕福でない家庭であったからである。また日本はますます戦争を拡大していたのも影響した。親はなにも言わず無言だったことを良く覚えている。私が11歳のとき1941年12月8日アジア・大平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ等の連合国軍と戦争が始まった。 

幼児のころの四季のあやなす、いろどりと絡みあい遊ぶメルヘンの世界は粉々に飛び去り
常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む阿修羅の心になってしまった。
 

一年生の私は軍事一色の工業学校に入学して恐怖を感じていた。物理の教師は退役海軍将校でいつも軍服にサーベルをさげていた。漢文の教師は節々が太い1mの竹棒を常に磨き込み濃い不気味な濃茶色の光を発していた。出来ない生徒に天誅と称して頭を叩くのである。節が頭の皮膚にあたり痛さがます。血が滲むこともあった。
数学の教師は細身で神経質である。問題を出し回答を黒板に書かせるのである。細い竹棒を持っていて出来ないとき、やはりピシッとたたかれた。
遠足は鉄砲を担いでの行軍である。

 1945年、三年生になったころの電気科は40名近くいたと記憶している。私は背が高い方であったので後列から二番目の席であった。私の後ろの再後列の生徒は体格も良く柔道二段の強者であった。
私とはなにか気があった。そして校内での行動はいつも彼が私を庇ってくれていた。

日本は敗戦の一途をたどっていた。ご飯も食べられない位の食糧不足となっていた。母は着物を持って遠い農家まで行って食料の買い出しでかける。貨幣価値はなく物々交換でないと農家は作物を売ってくれないのである。

配給の食糧だけでは餓死してしまう拙悪な食料不足となっていた。

闇米を購入した者は罰せられる法がでた。法を守る裁判官が闇米を食べなかったために餓死したとゆうニュースを覚えている。

 母は悲しそうに帰ってきた芋の蔓を持ってである。米は売ってくれないという。さつまいも、もダメだという 蔓しかないのである。
生育盛りの子供に栄養が与えられず母は悲しんでいた。
家の前の道路側に畑を耕し始めた。町内一斉にはじめた。肥やしは人糞である。
 

家から鉄瓶等金物はすべて供出命令がでた。お寺から梵鐘が無くなっていった。
日本は一億総玉砕の覚悟をと軍事政府首相から聞かれるようになってきた。

 日本の青年はどんどん徴兵されていた。遂に新潟鉄工所へ学徒動員の命が下された。鉄工所の工員も戦場に徴兵されてしまい兵器を作る匠はいなくなったのである。それで少年がかり出されたのである。 

そのころアメリカの新鋭の爆撃機B-29が日本の工場の爆撃と港・河川に機雷が投下され始めた。 

新潟鉄工場は信濃川を挟んで西側工場と東側工場にわかれていた。工場間の連絡用にジーゼル船に引かれた艀が定期的に運行されていた。 

通学路は家をでて西に行く 尋常小学校から通い慣れた徒歩15分の道程であったのだが学徒動員令が出されてから東に行く道路をうつむき加減に工場に向かって道程60分歩く
工場の守衛に通行証を示して工場に行き工作品の運搬など級友達と黙々と働いた。空襲警報が鳴るたびに防空壕に避難する。晴天の日などB-29爆撃機のエンジン音とキラキラ光る機体が得体の知れない恐怖感に襲われたのだった。

 1945年7月2日午後5時仕事終了し東側から通勤している友達がいつになく楽しそうにして帰り支度を急いで帰りの艀に走って行った。今日は蒲原祭りがあるからと叫んでいた。私は西側なので通行証を示して門を出た時であった。 

ものすごい耳をつんざく、空気の振動と爆発音を聞いて振り返ると空中高く水柱が立っていた。機雷に触れた!! 

急いで艀乗り場に走った。級友7人が一瞬に犠牲になった。助かった級友も重傷を負ったのだった。この地獄絵を終生忘れられない!言葉を失った。全身震えが止まらない。 

機雷は少年達の命を奪ってしまった。 

呉海軍工廠へ動員命令 

級友たちが機雷に触れ空中高く舞い上げられて散ってしまったあまりにも悲惨な衝撃が何時までも脳内に残りほかの記憶は断片的にしか残っていないのである。 

脳内の映像は呉海軍工廠の工場で特殊潜航艇の魚雷発射口の旋盤を操作していたこと。そこに特攻隊員が来て赤い顔し酒匂を放ちながら柔和に私の肩に手をしっかりあてて言った。 

「俺はこれに乗る。頼むぞ!」 

この特殊潜航艇は真珠湾を攻撃した型と同じだと言うこと。Tokuetazima06

 現在 海上自衛隊幹部候補生・第一術科学校(旧海軍兵学校)に真珠湾攻撃した特殊潜航艇が復元され置かれている 。 

私はこの画像の先端部分の魚雷発射口を永いこと見つめていた。特攻隊員の柔和な笑顔が浮かびでていた。
82歳になった、皴顔の目から涙があふれていた。

 

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 工場内には人間魚雷も製作されていた。完成した人間魚雷に休憩時間に乗ってみた。Ninngengyorai_2 ハッチは上から閉める構造である。乗員が乗ったら最後ハッチは内部からは開けられないのだ。この人間魚雷は靖国神社悠就館に展示してある。

 

和歌山県の熊野に、那智山青岸渡寺がある。補陀落渡船とは、生きながらにして、海へ出て、補陀落浄土に向かうと言うことである。この渡船は上から蓋をし釘打ちするので中に入った人は出られない。海流にのって補陀落浄土の旅に出て死ぬ。 

私はこの魚雷に乗る特攻隊員は神仏ではないかとおもった。 

あわてて開いているハッチから出て特殊潜航艇魚雷発射管の作業現場に戻った。 

呉海軍工廠動員解除から帰郷までの記憶へ

 呉港には戦艦大和ほか大小のさまざの艦船が数多く浮かんでいた。岸壁に繋留しているのは掃海艇が多かったと・・ぼんやりだが脳内映像に残っている。

毎日、何回かアメリカの艦載機が襲来して機銃掃射を受けていたことをはっきりと記憶にある。私は防空壕に逃げ込んで体を丸く縮めて震えていた、防空壕の入り口からみえる工場の道路に艦載機から放つ弾が豪雨のように弾丸ヒューヒューと恐ろしい音を発しながら降ってきてコンクリート道路を突き破りコンクリートの粉を吹き上げていた。と同時に私の体に異変が起きていた。それはオチンチンが異常に膨張していたのである。「後に知ったことだが男性が瀬戸際の危険状態になると”種保存本能”が働くからだと」 

日本の戦闘機の応戦は全くなかった。日本は負けるのだと深く思っていたがその言葉を発したら憲兵に捕まる。 

空襲解除後に職場に戻る光景は地獄絵であった。対空機銃砲を握ったまま複数の兵士が血を噴き出し戦死していた。機雷に触れて死んでいった級友達のことがよみがえった。 

ある日はっきりした記憶にはないが1945年6月のある日だったとおもう、動員生徒は帰郷せよ!の命令があった。理由は「アメリカの新型爆弾が投下される」・・・? 

旋盤の作業が最後の日に、あの「特攻隊員が荷物をぶら下げて」私の防空頭巾の綿を取り出し綿のように柔らかい「ほまれ」と呼ばれる刻みタバコを入れ始めた 私はPhoto_2驚いてみていた。そしてチョコレート・羊羹などを入れ始めた。また驚いた。

終わってから言った煙草ほまれ・写真はふくしま戦争資料館HPより 

「今日でさよならだ!門をでるとき衛兵がいつもの持物検査をするだろうが平気な顔をしていなよ。 防空頭巾は「ほまれ」でやわらくなっているから心配するな」 寄宿舎のある近くの農家に行ってこうゆうのだ」帰郷の日に白米のおにぎりをリックにつめてくれといって防空頭巾の羊羹・チョコレート タバコを全部をだまってわたしなさい」お百姓は大変驚くと思うが喜んで”おにぎり”を作ってくれるだろうから」「理由はゆうなよ」 防空頭巾に綿をつめたら寄宿舎に帰れ!<br />わたくしは 深く頭をたれ、お礼を言った。涙はでなっかた。そして特攻隊員の背筋をピンとのばして去っていった後ろ姿を視界から消え去るまで見つめていた。魚雷発射管の旋盤をかけた面が銀色に輝き天井の電灯の光を反射して美しかった。私の工作した光 よさようならと呟いた。

 幼い頃 角屋(幼き日の思い出の記事掲載)に行ってチュウブのチョコレートをよく食べた、大好きなお菓子であった。<br />工場での食事は玄米やとうもろこしの混じった不味い弁当だった。お菓子など全くなかったのである。 

私の驚きは大変なものであった。お百姓さんも大変驚いていた。他言はしないと約束してくれた。あのやさしい特攻隊員の約束を守らなければと思った。 

私の寄宿舎は呉駅から呉線の汽車に乗って三っつか四っつめの「天応駅」であったのではと思う、かすんで見えない記憶である。

 帰郷の日、支度をして農家に行った。私のリックサックに積めらるだけの梅干おにぎりを入れてくれた。何個あったかは全く記憶にない。お百姓さんが「ご無事でね!といって涙をうっすらうかべて笑顔で言ってくれた言葉だけは記憶に残っている。 

新潟駅に行くには大阪駅で乗り換えなければならなっかた。乗り換え時間は3~4時間あった。夕刻に発車するので駅は大変混雑していた。床に胡坐をかいて待った。腹が減ってきた 。 

おにぎりは新聞紙に丁寧にくるまれている。真っ白な”おにぎり”が浮き出てきた。微笑みながら食べようとしたら”私の周りに異様な光景が描かれていた。みな札束を出して「売ってくれ!」私はリックを抱え込んで涙声で叫んだ「だめだ!!」新潟までは数十時間かかるのだから私の大事な食料である。 ようやく汽車に乗り窓際の席に座ることができ「ホット」した。<br />座席の窓には外が見えないように塞がれていた。国家機密の場所を通過するのだからであろう。日本海の絶景を展開する沿線でもあるが戦時中のことである。すべて秘密であるのだと思った。私の記憶に残るのはこれだけである。 

呉海軍工廠に行くときのこと。そして帰郷して家に戻ってきたときの記憶はすべて消滅しまっている。母は送り向かいに駅にきていたと推測するのだがもう83歳で逝ってしまったので聞けない。私は今82歳 もっと早く確かめておけば良かったと後悔してしまうが私が終末の歳を迎えたればこそ こうして少年の頃を強く思い出しあぐねているのかも知れない。 

現在の呉港 共有画像から掲載 

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日本敗戦

 呉海軍工廠から帰って自宅に2~3日間過ごした頃だったと思う。アメリカの新型爆弾が落ちるから急遽疎開せよと町内から連絡があった。私は母から家で飼っていた鶏を連れて行くわけに行かないから始末しなければと言っていた。自宅には母と私だけであった。父は何時もいなかった。父の周辺には何時も女匂がただよっていた。その上に教養がない父が私は大嫌いであった。 

母から鶏を始末するよう頼まれた。私は苦しんだ。始末しなければ鶏は餓死する。幼い頃よく草むらで蛇と遭遇したとき殺してしまったことの情景が思い出された。しかし鶏には愛着があった。それに食糧不足の時代に鶏の卵は貴重な栄養源だったのである。意を決して床の間に飾ってあった。日本刀の短刀で始末をすることにした。<br />庭にお墓を造り鶏の骨を埋め 祈りをささげた。 

母と一緒に避難に指定された田舎の小学校に向かった。小学校の名前は記憶にはないが屋内運動場に沢山の避難者がいたことはぼんやりとだが覚えている。 

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島市に新型爆弾が(これが原子爆弾だと後で知った)投下、また長崎市への原子爆弾が8月9日午前11時02分投下された。人類は核という「神」の分野に入り込んだのである。人類総破滅の始まりであるとおもった。 

疎開先で昭和20年8月14日午後9時ラジオのニュースと15日午前7時21分のニュースで天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず天皇の声(玉音)を拝するように」国民がもれなく放送を聞くようにとの知らせがあった。 

1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、ラジオ放送を私は起立して聞いていたが雑音が多く良くわからなっかたが日本が無条件降伏をしたことなのだとわかった。目から涙が溢れ出た。負ける戦争であることがわかっていた。 

2012年(平成24年)12月24日にYouTyubeで明瞭に昭和天皇、声(玉音)放送を聞けた。 

1945年(昭和20年8月15日) 日本は軍国主義から自由主義社会となったなった。歴史上経験していなかった社会となり日本は人心も混乱し大和魂はどこかに吹き飛んでいた。 

戦中に海軍予科練に行った級友が帰ってきた。軍隊の教育は精神を鍛錬するとしょうしてバットで尻を殴ることが当たり前であったのだ。普通の軍隊も鍛えると称して上官が下級兵士を殴っていた。「銃撃戦になると銃弾は後ろからも撃って来る」との言葉を聞いたことがある。嫌われる上官は味方に殺される。

戦中海軍予科練に行ったときは町内挙げて武運長久を願い無事で帰って来いと万歳々と見送られて入隊し敗戦で帰国したとき彼は激しく嘆いていた「町内の人々の冷淡な対応に落ち込んだ」日本人のあまりにも激しい変わりように落胆していた。町並みには腕や足を失った傷痍元軍人が箱を持ってお金を入れるよう頭をたれる。軍神とあげめられて居た方々である人々の変身ぶりに驚いた。これが日本人・・いや「人」という哺乳類の本心なのか。 

敗戦後はじめて登校した日の変わりようにも驚いた。 

1、登校中上級生を見かけた時は立ち止まって挙止の敬礼をしていたのがなくなった!

 2、校門には教育勅語の入っているお堂に最敬礼をしてから入門することがなくなった。

 3、軍人の教師の姿はみえなくなった 

4、新制高校制度が導入されるという 旧制のまま卒業できるし 新制高校3年に編入できるという 

小学校の隣に男女共学の新生中学校が設立された。

部活動の記憶と春の目覚め

自由主義社会とは個人を尊重することに原点があった。自由に発言できる喜びは筆舌では言い現すことが出来ない。

私と心から信じ合える山田と言う名の友ができた。そして軟式テニス部を立ち上げた。

当時新潟県立工業学校はこの地に設立されたのは昭和16年で歴史の少ない新しい学校であった。私が卒業した思い出の多い小学校の隣りである。

当時はテニスコートもなかった。学校はテニス場を作らない。お前達だけで作れ!場所は与える。

テニス部員10名でテニス場作りを始めた。毎日放課後 作業を開始した。水はけを良くするために砂利を敷きその上に砂土を盛り上げローラーで固めた。

何週間もかかった。土方作業である。筋肉が鍛えられ体力が増加したことを実感する。
このことがテニス技術向上に大きく貢献することになったのである。

中学のテニス県大会を観戦した。テニス強豪中学の試合をみて驚きを感じた。あのような技術を身につけられることは至難の技だと思った。相当な練習をしなければ達成できないと強く感じた。

テニスコートが立派に出来上がった。ラインを引きポール立てネットを張る。

軟式庭球はダブルスである。主将組は山田・大平組と決まった。庭球部長は山田とした。
第一球を山田が打った・・みんな大きくうなずいた。感激の一瞬である。

山田が言った。学業もテニスも熱心にやろう!そして県大会で優勝しよう!と叫んだ。
皆が「オ~」と答えた。

勉強と猛練習に小便の色がコーヒーのようになった。
夜は睡魔に襲われたが 頑張って勉強にも励んだ。皆んなで誓ったことを守らなければならない。

テニスの一般の部で国体にも出ている師範学校で教師をしている方から教えてもらった。
非常に熱心に指導して頂いた。私たちもこの指導に深い感謝をした。

山田は後衛で私が前衛の主将組となり猛練習をしたのである。

そのころ私の住んでいる町内に満州から引揚者も多くなってきた。
自宅の近くに住まわれた家に美しい姉妹を見た。私の心が熱くなったことを覚えている。

雪国の冬の海は北風の強風にあおられ数メートルの高低差大きい波濤が渚と平行に連続して押し寄せ渚にたたき落ちる。その音はどっどんドッドン々・・と地響きをたてるのである。

二階の自室で寝床に伏すと枕元に伝わる波濤の響の音は何かさびしく聞こえる。その音を聞くとなぜか向の家の美しい姉妹の姿が浮かんでくる。東側の窓に姉妹の家が見える。窓に映る人影に声を掛けたくなるのである。お姉さんは県立女子高等学校生であった。毎朝登校時に顔を合わせることができて何となく言葉を交わすようになったのである。近づくと、いい匂いがしドキドキしたことを覚えている。

母は私の現象を把握していた。私に言った、あのお嬢さんのお父さんは大きな病院の院長さんよ!!

家とは格式が違うからお嬢さんにはちかずかないのよ!と釘をさされた。

その日、美しい人の夢をみた。そして体に経験したことのない快感を感じた。朝起床したらパンツが濡れていた。変な匂いがした。病気かとおもった。後でわかったことだが「思春期の男子に多く見られる射精、すなわち夢精のこと」だと。

テニスの猛練習を続けた。死んだように眠った。これでいいと思った。忘れるから。

昭和22年秋だった。いよいよ新潟県高校軟式テニス大会に出場した。試合コートは師範学校のコート 主コートは新潟大学付属病院のコートで行われる。現代のような市営コートなど無かった。

すべて個人戦である。山田が言った。この大会で優勝しよう、そして国体に行こう

よし!いつもの作戦で行くことにした。その作戦とは後衛の山田が乱打を続けセンターよりに移動する。敵は空になった右サイドにストレートを打ち込む前衛の私がすかさず右サイドに移動して球をキャッチ ストップボレー等々、作戦を多く用意した。
順調に勝ち進んだ師範学校のコートでは準決勝まで行われることになっている。決勝は新潟医大のコートの準決勝の勝者チームと決勝戦が行われることになっていた。

山田・大平チームは遂に伝統の高校に打ち勝ち、準々決勝に進んだ優勝候補の伝統校とのチームと対戦である。

山田とがっちりとアイコンタクトし握手してコートにたった。相手は手強かった。試合の勢いは我が方にあった。あと2球先取すれば勝つ私の額から汗がしたたり落ちていた。そのころはタオルなどないシャツをまくり上げて汗を拭く。 

コートチェンジのとき 私に走り寄った女性がハンカチを渡してくれた。 仰天した 家の向かいの美しい人だった。アリガトーと上擦った声で言った。彼女の匂いのついたハンカチで汗を拭きコートに入った。山田がグーgoodをだしていた。身の毛がよだった。

そして遂に勝った。彼女は拍手していた。大変嬉しかった。いよいよ決勝戦である。新潟大学付属病院の決勝コートに向かった。今でもこの感動は心を震い立たせるのである。

そして遂に優勝した。テニス部を立ち上げて2年目にして新潟県軟式テニス最優秀選手賞をもらった。

第3回国民体育大会(福岡)1948年(昭和23年)の出場権を取得したのである

第3回国民体育大会(福岡)

1948年昭和23年9月26日(福岡市 東公園軟庭コート)開催された。

 

新潟県軟式庭球代表高校に県優勝校である新潟県立工業高校 山田・大平チームほか

 

二高校が選出された。国体は県ごとの団体戦である。

 

初戦の県は優勝校にランクされている三重県であった。

 

試合前スクラムを組み気合いを入れた。

 

初戦に三重県に勝ったのだ!!!そして勝ち進み岡山県に準々決勝に対戦したが敗退した。岡山県が優勝した。 

 

新潟はベスト8で終わった。 

 

テニスコートの土方工事で作ってそして筋肉の付いた体で猛練習をし、手取り足取り、
教えて頂いた師範学校の先生に心からお礼を言った。
 

 

地方紙に下記「概評」記事を読んで嬉しかった。六六年前の新聞はセピア色になっている。 

 

記事に山田・大平組の概評が載っていた。

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新潟軟式庭球の有名高校にのし上がっていた。新潟県立女子高校のコーチに招かれた。

 

初めて女子高校にチーム共々行った。そのときの印象が忘れられないのである。
校舎の中に入ったとたん異様な匂いが鼻をついた。

 

「みんな顔を見合わせた。」「なんだ~」この「匂い」 女性のフェロモンの匂いと後でしった。

 

練習の後,浜辺の防風林(黒松林)で「食パン」をご馳走になった。食パンの味を知ったのはそのとき初めてだった。塩風がやわらく頬をなでてゆく中で美味しく沢山いただいた。そして新潟美人揃いだった。

 

平和とは素晴らしいと心底から喜びが沸き上がったのである。15歳で呉海軍工廠で旋盤作業していたことが夢のようだった。

 

18歳で栄冠を勝ち取った。あまりにも落差の大きい時を過した。

 

>時だったか記憶から消えたが化学科の上原君(?)から家に遊びに来ないかと誘われた。師範学校の近くに彼の大きな家があった。

 

私が生まれて初めて聴いた感動の時であった。それは大きな電気蓄音器があった。棚には沢山のレコードケースが整然と並んでいた。私は唯唖然としていた。

 

彼は言った。クラッシックは好きか?と私はクラシックなど解からないので大きく首を左右に振った。

 

俺の好きな曲かけてみるなと言って レコードにそっとアームの針を溝に乗せた。

 

ベートーベンの田園交響曲だよ 私の脳にあらゆる情景が浮かび上がってきた。
家の裏の黒松林から日本海の春の情景が浮かんでいた。

 

第二楽章に、すっかり惚れ込んだ。

 

増幅器の製作を始めた”807A”という真空管を出力に採用して製作した。夜に聴く時には、思わず部屋の明かりを消して聴きたくなるような、 真空管のソフトなオレンジの灯りに、ノスタルジーさえ感じさせられる。スピ-カ-ボックスはリンゴ箱に綿を張りスピーカを取り付けた。

 

小遣をためてベートーベン田園交響曲のレコードを買ってきた。

 

毎日帰宅するとすぐ手作りのアンプの電源を入れる。真空管のフィラメントがぽーと赤くなりピンピンとかすかに音がする。暫く時間をおいてから、レコードに針をそーっと落とす。私の至福の時間となった。ボリュームを大きくして聴いていた。

 

二十日くらいたった頃だろうか家の前で女学生の制服を着た人が立っていた。レコードをかけた時だけたっているようなのであるそして時間は午後4時頃この曲をかけるときと決まっていた。

 

一枚しかないレコードの田園交響曲ばかりである。この曲をよほど好きな人なのだろうかと思った。

 

一ヶ月も過ぎた頃だった。わたくしが曲をかけたまま外に出た。彼女ニッコリしていった。「いい曲ね」・・・「俺も好きなんだよ」と言った。彼女は典型的な色白の新潟美人だった。目がパッチリとしていた。そして自分の写真を私によこしてくれた。

 

この写真は私のアルバムに貼ってある。もう六〇年以上でセピア色になってる。

 

秋頃から姿が見えなくなった。どーして写真などくれたのか いまだにわからない。

 

でも私と同じ田園交響楽が好きだったことに心の共鳴はあったが交際の進展はなかった。今思う 交響曲第2番にふさわしいと思った。

 

私と同じ歳だとすれば82歳のお婆ちゃんになったであろう。どーしているであろう

 

逢いたくなった気持ちが湧いてきていた。

 

YouTyubeにレコード盤の曲がアップされていた。お借りしたので聴いてみた。なつかしい!!

 

下記田園交響曲第2番の文字をクリックしてください。

 

アナログレコードの針音はなんと!!心に響く!

田園交響曲第2番

ハンス・シュミット・イッセルシュテット&ウィーン・フィルハーモニー

 

今日は2012年12月31日大晦日に戦中戦後を生きた少年の記憶の最終回となった。

戦中戦後を生きた少年の記憶を搾り出して記事にしてきたが書いているうち、頭が痛くなってしまった。

そして昨日のような出来事のように思えたのである。

一瞬 少年の時の感覚になってしまった。

今から64年前が18歳だった。庭球部員10名であったが7名の友が逝ってしまった。主将組2名と後1名の3名が生きている。

散る桜残る桜も散る桜のたとえどおり「人は生まれてすぐ死の旅にでる」

15歳から18歳までの水々しい感覚を一瞬でも思い出したことは幸せであった。

そして記憶をクラウドに記録した。

終世忘れえぬ雪国の風景を水上 勉 氏の言葉を最後にお借りして「戦中戦後を生きた少年の記憶」を終了。読んでいただいた方々に心から感謝いたします。

・・・・日本海は、時には荒れ、時には晴れ、時にはくもりするうつろいやすい空で、今日も、不変の波を打ちよせつつ、有為の山河を抱く。
げに、日本海は、変わりゆく日本で、失いつつある人の美しい暮らしを、いましばらく保ち得て、きらめくような四季を温存している。・・・

女性の浜辺のシルエットに、まなこが潤む 遠い遠い あの日

http://youtu.be/4d3d2tMK16Q