« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

2008/05/29

日々のニュース

デジタル放送開始が数年先に開始されると報道されている。パソコン機能も融合された新機種のTVがあふれるように発売され続けている。一方放送している番組をみて私が鑑賞したいと思う番組はない。ニュースは毎日悲惨なニュースばかりである。

敗戦後,祖国復興の「錦の御旗」を心に掲げ働いた。そして退職して13年たった。

豊な生活は実は環境破壊に繋がりそして競争主義が心の退廃につながった。
このような現状になることを予見していた賢人もいたのにその意見は取り上げられず「豊のことは好いことだ」と思っていた国民が大多数であった。私もその一人である。競走馬の眼に正面しか見られないようにしたメガネを付けられたように「豊な社会」に向い全力疾走を続けた。

先進国が消費する膨大なエネルーギーが地球環境破壊につながり自然とともに生きている発展途上国の人たちが飲料水としている地下水までが海面上昇で塩分を含み飲めなくなっている。そしてかつては肥沃な土地で農作物が豊富に育っていたが塩分水では育たないという。

人工衛星からみた地球汚染がいかに大きいか知るこができた。

大量消費・大量廃棄・が人間と同じ遺伝子をもっている地球上の生き物まで絶滅破滅させているとの報道がなされている。朱鷺だけではないのにと思う 一日に一種ずつ絶滅していると聞いた。

私は今使ってる水があまりにも清潔で豊富に使えることが心の大きな負担になっている。

朝の歯磨きもコップ一杯で済ませたり、油気のなくなった老いた顔はタオルで拭くだけで充分だ。 こんなことをしても汚染防止に寄与しないことは分かっているが塩分の含まない地下水を求め歩く発展途上国の人達に申し訳ない気持ちでいっぱいになるからの行為である。

地球温暖化をもたらした先進国にも大きな被害をもたらしている。気象の大異変が起きてきた日本も水害・米減収そして海面上昇で東京・大阪・伊勢などで浸水被害が予測されている。光化学スモッグ・熱中症も 樹林も大きく枯れる被害が発生する。新型のインフレインザウイルスも発生するのではないだろうかとも危惧する。

対策は遅々として進まない 今からではもう遅いと思うがドーシタライイノダロー
今こそ自分からなにをしなければならないかを考え実行していかねばならないと思う。役所から通知がないからではなく自ら行動に移すべき時だと思った。

私が長く生きながらえていることが社会に迷惑をかけている思いが日ごとに強まる。今朝も生きていた。

新聞広告には新車・TV・etcと宣伝されていた。 

飢えて困っている人に役に立つ活動しているNPOへ気持ちだけでも寄付して自分の心の負担を軽くしたいと思う毎日である。今日は気温10℃と昨日より12℃も低い気温の乱高下がひどい
毛糸のセータを着て冬姿で散歩しながら「世界は絶滅するしかない」と思い気持ちは落ち込んでいたが、分子生物科学者である柳澤桂子著「生きて死ぬ知恵」小学館を購読したなかの一文が頭に浮かび私の心を軽くした。それは44ページの後半部分の文章である。

・・・・いまから二億五000万年前の大絶滅は一番規模が大きく、地球上の生物の九五パーセントの種が絶滅したという。私たち人類の祖先は、生き残った五パーセントのなかに入ったのである。もし奇跡という言葉が、この世でたったひとつの不思議にしか用いられないならば、いま、いのちが存在している事実そのものを挙げるしかない。一個の生命が発生してくる過程もまた神秘に満ちている。これらを知れば知るほど、子供たちは自分がいかに奇跡に満ちた存在であるかを理解するであろう。・・・・

環境問題に熱心に取り組んでおられる柳沢桂子さんがブログを公開されていましたので私は訪問しては感動し私の残り少ない命を大切に過ごす意義を見出すブログでもあります。いのちの窓をクリックするとリンクします。
{「いのちの窓」は問い合わせが多いのでブログからHPに移されております。}

柳沢桂子 いのちの窓
詩は柳沢桂子さんのブログトップページからです
Song

2008/05/27

自分とはと考える日々終わり

自分とはと考えるとき自分の生きてきた軌跡を何度も辿ってみた。自分の生きてきた流れに一緒に流れる人たちに自然と認められていると感じるときが心の癒しに、生きがいになっていると思う。また自分の思う気持ちを書き記したり、感動した場面を写真・ビデオで表現すること、また好きな作家の著書を読み・音読することが自分の存在を認めると感じ心が軽くなる。

ブログなどは格好のツールである。誰かが読んでいてくれているのが訪問カウンターを見ていると分かる。読んでくれているのか、ただタイトルだけ見て通過しているのかは分らないが、見てくれる人がいなくてもいいのである。自分の鬱積した気持ち、悩み、友との別れなどを書くことによって自分の存在が確認でき「生きる支え」につながるように思っているからだ。

なにもしないで時計とニラメッコして過ごすことが一番辛いことである。加齢するほど体調が悪くなるのでその対策は何か書いてみると辛さが軽くなる。また 一日一回は5分でもいいから外気に触れ新鮮な空気に接することでも効果はあると思った

四季の風の流れ、花々、樹木、雲 どこからとなく聞こえてくる音・音・音などを眺め聞きその変化を肌で感じる効果は、生と死の葛藤、とうの思いを書き記すのに無くてはならぬ情報であり心おだやかにしてくれるように思う。 

誤字 脱字 文章の構成 等々を気にしてはいない。自分の心をしるして書き連ねる文章だからドーデモいいのである。 あとから読んで見ると面白いことがおきる。
文章の表現を改訂したくなったり、辞書を調べてみたくなる。そうなったとき書き直すことも心の癒しにもなる。

書き記すことがドーシテ心の癒しになるかということは心理学的には解明されていないと聞いたことがある。お分かりの方に教えていただきたいといつも思っている。

芥川龍之介氏・川端康成氏・太宰治氏 等々の大文豪が自死しているのは自分には理解できないが、歳を重ね老人になれば脳の想像力は低下する、書き記すことが出来なくなるからだろうかとか、または人生充分堪能したからなのか、そんな幼稚な邪推をしてしまった。一読者としてはもっと生きて欲しいと残念でたまらない。

文豪の方々の文芸作品を読むと人生・人間・自然等々について、自分の脳内に映像として見ることができるような豊かな文章が書き記されていて教えられることばかりである。また自らの死を自覚して延命治療を拒んだ吉村昭氏著「死顔」を読み 生る!素晴らしさを私の心に刻み込まれた。

タイトル「自分とはと考える日々」はこれで 終わりとします。訪問していただいた方々にお礼申し上げます。

私が雲の撮影をはじめて5年にもなりますが私の心に感じた数枚の写真を下記にしるします。雲に関心のある方はごらんください。

2008/05/25

自分とはと考える日々 第4回

国見峠は「自分とはを考える日々」のコースの一つである。峠を団地に整地した高台なので市街地を一望できる。見通しの良い日は太平洋が見える。夜景写真この写真を見る

前立腺肥大手術をした病院に月一回術後の検査に通院に行くにはここを徒歩で行く、四季それぞれに市街の情景が変わるので楽しい。自分の家から徒歩15分でこの場所を通過してゆく。仙台城築城に使われた石材はここから0852512近くにある「唸り坂」と名付けられた坂がある 名前の由来は「国見の山屋敷で切り出された石材を車やそりにのせられ、それを牛や人が引いてこの坂を牛が唸りながら登ったことから名付けられたと聞いた。杉林や山野草がわずかにその痕跡を残している。

自分がそのころ生きていたら重労働に耐えれたかと思った。そのころの人々は麦飯玄米が主食であり、背は低くずんぐりし筋肉も隆々であったのだろう 麦飯玄米が主食 野菜や山の自生している山菜であればこそできた体力であろう。 自分はとてもうらやましく思った。宮城沖地震が必ずくると言われている 近代建築の市街地を眺めながら近代の建築が弱そうに見えた 新潟地震085259でも昔の石材で架けられた万代橋は健在で 少し上流の建築したばかりの昭和橋の橋桁が落下した。人力で築城された仙台城は大丈夫だろうと考えながら 唸り坂を下って散歩した。初夏で各家ではバラ・ハマナス・ハンザ等々の花が色鮮やかに咲きだした。
名前の知らない可憐な山野草が特に美しく思った。

市街地の夜景はYakei.jpからお借りした。夜景を写すことのできるカメラを欲しい

今日は少し歩き過ぎであった

 

2008/05/24

自分とはと考える日々 第3回

生きる力を獲得したいと思う気持ちは日々強くなる。日記を書くことや散歩中にビデオ・写真などを撮ることも生きる力の支えになると思う。すれ違う人と「こんにちは」と声を交わすのも生きていることを感じさせてくれるのである。

犬を連れて散歩している人が非常に多くなった。この団地ができて30年以上経過しているので家族構成も子供が減り高齢の方が多くなった。小学校の児童も激減しているそうである。だから家庭内の会話が少なくなりその対策が犬や猫を飼って生きがいにしている人々が多くなって来ているのだろうか。

団地内の各家からは犬の吠える声があちこちから聞こえてくる そのなかで10か月前の頃と記憶しているが古い家を解体し空地になっていた。
そこに最近モダンナ家が出来上り若い家族が入居していた。ある日その家の前を通った。 赤ちゃんの泣き声が聞こえて来た。なにかホット心が温かくなった。

77年前の自分を考えていた。自分も赤子の時もあったのだな~と当たり前のことを思って苦笑いした。そして泣いている赤ちゃんの幸運を祈っていた。

人は誰かに見られているそして知らない誰れかから励まされていることもありうるのだな~と勝手に「自分とは自分だけでは無い」と思った。多くの方々に自分は支えられて日々生きていると考る。

と思った時 俄かに自分の過去を振り返った。懺悔のことが多いのである。悩み抜いたことや 嬉しかったこと 亡くなった少年時代の友のこと・・・歩くことをやめしばらく公園のベンチで休み回顧三昧の時間を過ごした。

カッコーの声がそろそろ聞こえる季節が近くなった。

2008/05/23

自分とはと考える日々 第2回

五木寛之著「林住期」幻冬舎 の本の帯紙に下記内容の文字に目をとめた

古代インドでは、人生を四つの時期に分けて考えたという。学生期 家住期 そして「林住期」と「遊行期」。
林住期」とは、社会人としての務め終えたあと、すべての人が迎えるもっとも輝かしい「第3の人生」のことである。

これによれば私は「遊行期」にあたるが五木寛之氏の愛読者である私は購入した

私のブログ心タイトル自分とはと考える日々 第1回の記事が私の「林住期」にあたるがこの黄金時代を謳歌するための条件は健康であることそれと資金であろう。

遊行期に関する著書は発刊されていないようだが人生最終の「遊行期」は「死ぬことを考える」ことだそうである。
日本の武士の葉隠の思想「武士道とは死ぬことと見つけたり」と似ていると思った。

さて死ぬとき人それぞれに苦しい時を乗り越えなければ永遠の眠りにつくことはできないと思うようになってきた。

また閑がたくさんある時期ということから遊行という言葉になったのかと勝手に想像した。閑を有効に使うためには健康が第一なのだが加齢になるほどあちこちの身体の臓器がバランスよく動かなくなり閑を過ごすことが苦痛になるので相当に閑の使い方に工夫が必要となる。

心の苦痛も耐えなければならない。それは子供達も加齢が進み身体の不具合も訴えてくるようになる。また孫たちの心配ごとも出てくるのである。いじめ・進学・反抗期等々
現代は快適な暮らしのためのクーラー・全自動洗濯機・住宅関連の新機種が開発されている。その上情報機器の進歩はめざましい、子供たちはゲームに夢中になり外では遊ばなくなった。ゲームの内容は殆ど血が噴き出るような格闘の場面が多いと聞いた、携帯電話でのトラブルも多いのである。暮らしの道具がすべて機械化されてしまったので家庭内の会話がなくなり美しい日本の言葉がなくなった。男子の言葉と女子の言葉の区別が無くなった。

昔はお米を炊くときの歌みたいのがあり母から子に言葉でつたえられていった。
めし炊きははじめチョロチョロ中パッパ赤子泣くとも蓋とるな」 と!

電気釜にこのプログラムが入っていて美味い御飯が炊けるので、ご飯の炊き方など親から子に伝える言葉が消えてしまった。すべて現代は会話と言う人と人の心をつなぐ言葉がなくなったような気がする。

また各家はいつも鍵がしてあり警備会社と契約すれば常時監視の体制もできる。
昔は玄関は開けっぱなしで開放的で隣近所とお付き合いが常時監視に寄与していたのかも知れないと今にして思った。「自分も隣近所に何らかの形で役に立っていた」と思う。自分の存在価値があったのだ「生甲斐につながる」心が解放されている時代であった。日本の四季は、はっきりしていたので季節と対話ができていた。家庭に笑いがあったのである

暮らしやすいための機械化は人の心が閉鎖され言葉が無くなってしまうのだ。
例えばこんな具合である。我が家の浴室タイル床が劣化し漏水した。水は建物基礎を腐食させることになる事実基礎の木材に水が侵食していた。家は長女が継承することにしているので修繕方法等々は私は一切口出し、しないことにしている。
浴室が私より先に逝ったかと長年、浸かっていたお風呂とお別れである愛着があったので寂しさを感じた。新しい浴室が出来上がった。驚いた! ユニット式とかいう浴室も風呂も一体ものである色彩は風呂桶は薄いピンク色でベットと同じなので寝ながら湯に浸ることになる洋式なのだ。壁2面が薄い白に近い鼠色と鏡のある壁は薄いピンクである。両膝を両手に抱いて入る日本式でなくなった。

少年時代家向かいの小母さんの家のヒノキの銅縁の日本式のお風呂の重厚さを思い出していた。

また驚いた。お湯を沸かすのは一回だけスイッチを入れればいいのである。スイッチを入れたらチャイムがなって若い女性の声が流れた「お湯張りをします」7分くらいたった頃に「あと3分でお風呂に入れます」ときた。チャイムがなって「お風呂が沸きました」
長女曰く「年寄りは浴室での死亡が多いので冬は暖房をつけてね」「なに暖房?」天井に温風がでて室温調整もできる。乾燥室にもなるので露の日は便利だとゆう なるほどユニット式であればこそできるのである。私は散歩から帰宅すると汗びっしょりとなっているのですぐ風呂を沸かす。年寄臭防止のためにも、チャイムがなって「お風呂が沸きました」である。

これではまことに味気ない ロボットを相手にしていると同じである。言葉が少なくなるのは当たり前と実感した。

老妻はチャイムがなっても「お風呂わいていますよ」と・・私はほっとして「おお沸いたかい」
と言って長年の言葉を繰り返している幸せを味はっていた。薄いピンク色の浴室で「今日の自分を考えた」非常用の赤いボタンが目についた押せば家族とインターホンでつながる。このまま往生したい気分を考えていた。

現代の中で「自分とはと考える日々」の内容が複雑になり自分は何だろうと考えられなくなってきた。

自分も隣近所に何らかの形で役に立っていた」からこそ「自分とはと考える日々」を考え書けるのだと思った。
寝たきりになると介護・医療保険いわゆる人様の保険料と税金を使うことになるその防止方法は歩いて体力をつけることが基本と毎日実行している。台風襲来の日も雨具を付けて散歩しながら考えた。・・・・つづく

2008/05/21

自分とはと考える日々 第1回

昨日20日の台風で藤の花は地面に白い花びら模様の絨毯を敷いて散ってしまった。今日は台風一過の青空となった。老妻と掃除洗濯を朝食後一休みしてから開始、今日は洗濯日和の予報である。敷布等の大物洗濯をし10時までには物干しに掛けて終わったこれも運動の一つである。

私は仕事から解放されて10年間経過したがその間 童謡・朗読・ヴィオリン等々の教室に通う傍ら中学校の情報科学を郊外講師として経験した。また病気も大腸結腸手術・前立腺肥大手術、思いもしなかった病気をした。いろいろの人との出会いがあり大変楽しく病気は苦しい思い出の10年間であった。

幸せであったのは現役中風邪もひかず健康で過ごせたことである。病気など考える暇もなかったのが免疫力を上昇していたのかもしれない。

いつの間にか喜寿を越えた ものごとにはすべて終わりが来る 楽しい思いを充分に味わった。なすべきことはすべて終わった。今の私には人生の老病死が残るのみである。

「自分とは」と考える日々が続くようになった。力むことなく 大自然の流れの中で生き抜く自分を見つけて行きたい

大自然の流れとは大きな災害も含む、何時遭遇するかも知れない 私は過去に新潟地震・十勝沖・秋田沖を遭遇している。何もない日を過ごすほど幸せはないと思う 就寝するときいつも呟く言葉は「あゝ今日もおわったな~」

わたくしは「ブログ心」で「自分とは」を表現し心の支えとしたいと思っている。

と・・大きなことを言ってみたはいいけれど書けるかどうかは自信がない。 つづく

2008/05/18

初夏に似合うふじの花

五月十八日今年のふじの花が散り始めました。

その美しさの境地にひたり 香りといえ花の房も色も うっとりとして、しばらく見とれていました。初夏に似合うふじの花 

2008/05/17

後期高齢者の安楽死法はないの

高齢者医療費削減のため、後期高齢者被保険者証が三月に届いた。姥捨山行きの通行証のように私には見えてきた。高度成長時期、私たちは無我夢中で働いた。ワークホーリックになった。休みの日に具合の悪くなる病気である。

この時期に働き抜き、生き抜いて来た人たちが今、後期高齢者被保険者証を有無を言わせず突きつけられたと言う感じである。

政府はこの言葉が批判されると「長寿」にしたらという。中身は同じである。あまりにも誠意のない突き放された思いがし75歳以上は死んでくださいと言う裏の声が聞こえてきた。
日本はこの5年間で自殺者が16万人も出ている状況であると言う。悲しいことである。悲しい祖国日本である。

医療の進歩はめざましく病院では患者はパソコンからの医療診断機器の計測デジタルデーターですべて決まる。
そこに経験豊かな医師の診断結果があったればこそ世界一の長寿国家日本になったと思う 

優秀な医師を大切にする制度が盛り込まれているのだろうか、そうでないと、なにか病院には人ではなくロボットがプログラムに従って扱われているようになるのではと思う

さて、この制度は死を待つしかない病気になると延命処置をするかどうか医師から家族が聞かれるらしい? 本人は尊厳死を希望するであろうが家族はその延命を望む方が多いのではないのだろうか、それが家族の絆なのである。

死を迎える時は苦しい時を超えないと死ねないと言われている。ピンピンコロリは宝くじにあたる確率並だと聞いたことがある。
安楽に死にたい気持ちになってきた。自死には大きな障害があるので安楽に08515死ねる制度はできないものかと考えてしまう。

後期高齢者保険証を見るたびに長生きすることは社会に申し訳ないと思うようになった。
人の世が冷たく感じた。私も冷たくしてる一人なのかも知れない。これも長寿のせいかもしれない。

今日も五月晴れ 午前中の散歩道で同年配と思われる老人とすれ違った お互い黙し目礼した あの老人も同じ思いをしての散歩でないかと思った。

人生、空白のページは今年平均寿命に到達する私からすれば"0"である、あとは天命に従うのみとなった。

生命時間を大切にしたいと願いを込めて五月晴れの紺碧の空を仰いだ。

2008/05/14

生命時間を過ごすこと おわり

昭和12年私が尋常小学校一年の吹雪の日の登校の記憶は忘れ得ない。当時の積雪は3m位はあったのではないかと思う。私達は道路より3mも高い雪道を歩くことになる。電信柱の電線が右横に見えるように記憶している。町並みをはずれると砂山から吹き下る強風をともなった雪は睫毛に付着し白い睫毛となる。高学年の児童が先頭にして積雪をラッセルして一列縦隊で、ただ、もくもくと歩く、私の体は冷たく泣きたくなったが学校の校門が見える頃にはみんなの体から湯気が立つ、私も体が温かくなり元気がでていた。

教室に入るとダルマストーブに小使さんが火だねを入れていた「お早うございます」の挨拶をする。「今日も寒かったろう、もうすぐ暖かくなるよ」と笑顔で答えた。石炭がちょろちょろ燃え上がっていた。ストーブの脇に昼のお弁当を温めるための棚があった。

その棚に弁当を置くのであるがその場所は学童の勢力ある者が決める。当然

勢力のある者がストーブの熱を多量に受ける場所に入れるのである。相撲の番付みたいなものである。

お昼時間になると猛吹雪を乗り越え登校し腹を減らしている学童は一斉に弁当の蓋を開ける。横綱級の者の弁当からは湯気がもうもうと立っているフーフーいいながら食べ始める。しかし幕下級の者の弁当からは湯気は立っていない少しだけ暖まっているだけである。上位を占めている者は集落からの学童が多かった。私は町の餓鬼大将ではあったが集落の餓鬼大将には抑え込まれていた。

ときたまではあるが横綱から、おい「今日はここに入れれや」と最高の場所を提供してくれた。当時は陰惨ないじめなどは皆無であった。やさしがあった。

友と今日の遊びの仕方を話しながら下校する。自宅の玄関で「ただいま」と言うと同時にランドルセルを廊下にほおり投げ「スキーに行くよ」と大声で叫び竹スキーを持って裏山に駈けてゆくのである。

雪が降ると町並み砂山もすべて白一色の風景になる。冬の空は灰色となり薄暗い日が続く裏日本特有の天気である。時折太陽が顔を出す時には遊びが活発になるので心は躍った。

チャンバラは春秋に、夏は裏浜で海水浴が主体の遊びで冬はスキーである。私のスキーは竹で作った手製のもので、ただ竹を割っただけである。お金持ちの子はスキー靴を履き格好よく滑走している姿を見てうらやましかったことを覚えている。スキー場は家裏の砂山である 

三月に入ると道路の雪が溶け出してくる日がある。これは春が近くにやってきたと告げている証拠である。冬国で育ったものでなければこの嬉しさは分からない。言葉では現わすことはできない。道路に土が見えてくると早速、長靴から高歯下駄に履き替え歩いてみる。

この感触も経験せねばわからない。それは長靴を冬場中履いていて歩くので、ときには滑るので注意しながら常に歩いているのである。高歯下駄に履き替えて着地するときの感触はまさに地球の引力を感ずるのである。足が大地にしっかり食い込んだ感じである。今でもこの感触の素晴らしさをしっかりと覚えている。春が大地から来たと思う瞬間でもある。

五月は端午の節句を迎える。男の子の成長を祝って揚がる鯉のぼりは、大きな家ばかりである。私は母に「鯉のぼり買って!」と何度も頼むが返事は何時も同じである。

「お隣の家は大きいでしょうお庭も大きいし、お金持ちなのよ うちはお庭も小さいでしょうお金もないし、大きな鯉のぼりは建てられないのよ」

私は諦められなかった。広告用紙の裏の白紙にマゴイとヒゴイの画を描きクレヨンで色づけしハサミで切り抜きそれを物干し竿の先端に付け門に紐で括り付けた。五月の風は暖かく優しく吹いている。私の鯉のぼりは紙製なので見事に旋回しながらオモシロイ泳ぎをした。隣の店屋の小母さんに「あら!立派な鯉のぼりね」と誉めてくれた私は有頂天になり母を呼んだ。「坊 やったはね いいわね 立派に泳いでるじゃないの」そして歌ってくれた

甍の波と雲の波

重なる波の中空を、

橘かおる朝風に、高く泳ぐや、鯉のぼり

私は嬉しかった 自分で作った鯉のぼりを誉めてもらった上に歌まで歌って貰ったことを終世忘れ得ない思い出である。高学年になって学校の音楽の時間に習った。母の歌ってくれた曲名は♪鯉のぼり♪であることが。

昭和16年4月1日から国民学校と改めるられた。男女共学制度導入された試験運用のためか1クラスだけが共学となった。私はそのクラスに指名された。男子・女子と一列交互の席である。私の前の席には同窓で一番と評判の可愛い子の席であった。毎朝登校するのが楽しくなったのは、その子は毎日黒い濡れ羽色の髪形が ・お下げ・編みあげ・おかっぱと変わるのである。私の目の前の子の髪形を美しいと思った。心ときめくとかそのような青春の感覚はなかった、ただただ女の子と言うものはこれほど髪型にこだわるのか不思議であると思ったのである。

確か70歳を迎えた同級会で その子が出席したので尋ねてみた、周囲の者も同じ疑問を持っていたと見え、聞き耳を立てていた。その子のお姉さんが毎朝、髪結してくださったとの事であった。
姉妹ではお姉さんの存在がありがたいことであることを知った。私の姉も優しかった。

生命時間を過ごすこと のタイトルで書き始めて6回続けきたがこれで終わりとしたい。理由は人生の流れで一番有用な時期の生命は誕生して小学校を卒業するまでであると思ったからである。
大正・昭和の尋常小学校の文部省唱歌教科書の童謡が今でも愛唱されています。当時文部省では学童達が大きくなり歳を重ねて行ったとき心に沁み入る童謡を思い出させ、過ぎ去った生命の歌をよみがえらせ生きる勇気与えるための童謡を 学童に教え込んだと聞いたことがある。

故郷・朧月夜・冬景色・春よ来い・里の秋 等々人生の生命が入り込んでいる詩・と曲ばかりである 仕事もすでに終わりすべてなし終えて78歳になんなんとする私は学童のころのことを思い生命時間を過ごすことのタイトルとしたのだった。

読んでいただいた多くの方々に感謝申し上げます。
生命時間を過ごすことその2の記事追記致しました。

*************************************************************************

子供たちに伝えたい 日本の童謡 池田小百合著 実業の友社
234ページ あとがき 

人生で、童謡との出会いは、三回あります。
一回目は幼児期です。母親や周りの大人が歌う童謡を聞き、覚えたうたを歌を歌うようになります 
二回目は、成人して家庭を持ち子供が生まれたときです。自分が覚えた歌を子どもに歌ってあげるのです。演歌や軍歌ではなく、やさしい響きの童謡を歌ってあげると、子どもはその肉声にふれて心を成長させるのです。
三回目は、高齢になってからです。かって歌った童謡を聞くと、過去の楽しい思い出がよみがえります。苦しかったことも歌が癒してくれます

2008/05/12

生命時間を過ごすこと その5

そのころ家の裏窓からの風景は、もやし畑が200mくらい続いているその先は高さ5mくらいの砂山が海岸線にそって横に広がっているのが見渡せる。にせアカシヤの木や黒松が植林されて数年しかたっていなく樹高は低かった。アカシヤの木だけは4m位のものもあったと記憶している。この記憶の証明はチャンバラごっこのための必須の道具である刀をアカシヤの木の刀らしい枝ぶりを折って樹皮を剝く、そのときのアカシヤの青臭い独特の香りをいまでも忘れない。長刀・短刀を作り母が仕立ててくれた着物の帯に重々しくゆっくりと差すのである。刀が作れるアカシヤの樹高であった。いっぱしの武士になったと思い込んでいた。

このチャンバラ遊びも紙芝居のおじさんの拍子木の音が聞こえるとチャンバラは即中止し戦場の砂山から町の道路脇に設置される所定の場所に走る。そこには小さい子供たちや女の子が集まっている。私は背の低い子を前に整列させ背高の順に見物席が出来あがる。小父さんは黄粉飴を観覧料と引き換えに渡す。これも大きな大きな楽しみであった。

町内の子供を集めて夕刻までいろいろの遊び方を見つけては遊んだ「時々母に注意された。○○ちゃんが帰ると言った時にはすぐ帰すのよ」私は町内の餓鬼大将になっていた。

ある日、遊びから外れた子の家に行きその子のお母さんに談判に行ったことがあったようだ。母にそのお母さんから苦情があったと、大きくなってから聞いたがそのことの記憶は私の脳内にはない。母はお菓子折を持って謝罪に行ったと言う 私の記憶にないのは母が私を叱らなかったからであろう。

帰宅の促す声が各家から聞こえてくる夕刻近くまで遊んだ。私は一人になっても明日の遊びを計画するのが好きだった。刀になりそうな枝ぶりを見定めたり、砂山を一部平地にするためトロッコによる砂運搬作業を見物し何時か乗ってみようとか、いろいろあった。何度呼ばれても帰ってこない私を8歳上の姉が迎えにきて「坊やもう帰りなさい!」と叱られることがたびたびであった。

秋の夕日の映える時は砂山が赤く見えた みんなの笑顔も赤色に見えた。

黒い電線に赤とんぼが同じ方向に整列してとまると電線は赤くなる。
空中には鬼やんま・塩カラトンボ等がすいすい行き交う これを捕獲する方法は、糸の両端に石を結ぶ 当時は砂利道であるので捕獲用の石はふんだんにあった。細長い石がよいのである。両手で左右の石を持って鬼やんまが飛来する寸前に上空高くフォオリ上げる。トンボは石を餌と思って飛びかかると糸が羽根に絡まれば成功である。成功率は高くなかったが成功した子供の歓声が上がる 家に帰って昆虫の標本にするのである。

夕刻になると畑の肥料を荷台に満積した牛車や馬車が肥料のくさい臭いを発散させながら砂利道に車音を大きく軋みながら通る。

トンボを捕獲できなかった私の前を牛が大きな尻尾を振り上げると同時に巨大な糞をボトボトと落下させた私は腹いせに牛の大きな糞を板きれに乗せ空高くフォオリ上げた。

格言にある通りのことが起きた。その落下してきた糞がまともに私の天を見上げている顔にビシャリとホットドック状に付着したのである。友はキャーと言って逃げて行った。泣きべそをかきながら家に飛び込んだ 母は仰天した。 夕飯の支度中であった母に叱られながら外に連れ出された。バケツでお風呂の湯を頭から浴びせられ風呂場で洗濯石鹸でごしごし時間をかけ洗浄された。母も私も臭い臭いと連呼し続けであった。

牛の臭いは数日たっても皮膚に染み込んで取れないものであることを知った。今でも老化した脳にも、はっきり記憶されているのである。その臭いは牛を見かけるたびに思いだす。 つづく

************************************************************************
昨日トイブードルの幼犬(名は春)が家族に加わった。老妻が抱き撫でていたが春は腹を上にした。服従しますの行動だそうである。私には見せない 春が上位で私が下位である。

2008/05/10

生命時間を過ごすこと その4

登校時には各町内の登校する学童ごとに固まって道草くいながら、ふざけあって往くので時間を充分取って自宅を出るように自然と時刻が設定されていた。この方式を未だに誰が決めたのか知る由もない。学校をめざして各町内ごとのグループが校門をくぐるのである。

このころ私の町内には、お医者さん・会社の重役さん・地主さん等お金持ちの多く住んでる新興町内であったが、父親はしがないサラリーマンをしていたのに高級住宅町内に小さな家を建てた。右隣は会社重役さんの立派な家なので見劣りがした。左隣は味噌・醤油を販売している店屋さんであった。

学校を取り巻くようにある畑は地主さんから土地をかりて農業をされておる人が相当昔から集落を形成していた。だから言葉のアクセントも違うのである。ここから通学する一人、勇君と気があったのか言葉をよく交わすようになった。

ある日、勇君は私に問いかけた「なうちいんがいっか」と言った。私には通じないのでポカンとしていた。また少し語気が強くなって「なうちいんがいっか!」その怒ったような語気に恐れをなした私は黙って理解できぬまま頷いた。勇君はニッコリして今度の日曜日「なうんちに遊びにゆくから」私は、また だまって頷いた。なにがなんだかわからないまま日曜日に勇君と遊ぶことだけは分かった。

「ただいま」元気なく帰宅した。シェパード犬で名前はドロップである。私が帰るとワンワンとシッポ振って吠える。元気のない「ただいま」を不審に思ってか、「母はなにかあったの?」と言う、私はこれこれ云々と答えた。
母は大笑いしながら通訳してくれた「お前の家に犬がいますか」日曜日に遊びに行くから犬を見せてくれ と言う事よ 私は犬のことをインガという言葉を初めて知ったようやく理解でき勇君が家に遊びに来たらドロップを連れて裏の海岸で遊ぶ計画を建てた。母はお弁当を用意するよと言ってくれた。嬉しい元気が出た。Whiteshepherds23ドロップは軍用犬として訓練されているので命令すればよく動く 学童の私でも

写真はhttp://www.12danya.co.jp/photo/
から引用させていただきました

勇君とは年一回の同級会で逢って当時を回想している。彼の畑は現在は高級住宅街となっている。

*********************************************************************

同居している娘は50歳を超えた。子育ても終えたので子犬を飼うことになった。明日家族が増える名前は「春」とゆう名の女の子犬である

2008/05/09

生命時間を過ごすこと その3

小学校入学のための身体検査が学校の医務室で校医により行われることになった。私は母に手をひかれながら学校に向かった。家から2.5kmの道のりである500mも歩けば家並みはなくなり畑が連なる。右手300mには砂丘が見える。これを越えれば日本海である。学校までの道路は日本海と並行している。だから日本海からの春のやさしい海風が頬を撫でてゆくのである。菜の花畑や西瓜畑がつらなっている。母は鼻歌を歌えながら私の手を大きく振って歩いてくれた。高学年になって母の歌ってた曲は「おぼろ月夜」であったことを知った。死ぬまで忘れえぬ思い出の曲となった。

校医が私の耳を見て「これは!お母さんこの子の耳垢を見てあげなかったのですか?」母はこの子は暴れん坊で絶対嫌がるんですよ!と言っていたようだ。校医は耳垢をつまみだして母の手のひらに乗せた。母の驚いた顔をして取り出された茶色の塊を見詰めていた。耳穴がほとんど垢で塞がっていたそうである。

帰り道の音の情景は全く変わった。私は「母ちゃん海の方から聞こえる音は波の音か」

「あら!坊や聞こえなかったの 好かったわね 今度からは暴れないで耳掃除させてね暴れて鼓膜を破いたら大変なんだから」

このときの驚きは今でも鮮明に覚えているのである。母の歌声はずっと綺麗にはっきり聴こえ、だれよりも美しい声と顔をしていると思った。 

あの思い出から70年を経た私の聴覚は聞こえが悪くなり、なおかつ耳鳴りがうるさくなってきているが。脳にはこの時の音を鮮明に高音質で録音されているので嬉しい。続く

今日も20時なった 老妻からお風呂入りますかの問い もう今日も終わったな~と答えた

2008/05/08

生命時間を過ごすこと その2

発声して乳呑児となり、だれかれとなく可愛がられたようだ、 時は猛スピードで過ぎさりいつのまにか町内の人々から悪戯小僧と呼ばれながらも、自宅の前の家の小母さんには可愛いがられた。「坊、汚いわねお風呂が沸いているから入って行きなさい体洗ってあげるから」たいていはいこの声がかかる時には小父さんが帰宅しない日なのであるこを知っていた。母からは小母さんから誘われてもいっちゃだめよと言われていた。小母さんは芸者であったと大人になってから知った。小父さんではなく旦那さんで小母さんはお妾さんであったのだ。

お風呂で小母さんは私の首筋にこびり付いている垢をへちまに香りのよい石鹸を泡立てて丁寧に洗ってくれた。母の場合はもっと手荒く洗濯石鹸で洗うので異様な臭いがする。小母さんの家の風呂桶は檜の長四角で銅板の縁どりがあり肌触りがいいのであった。檜の香りがするお風呂場で大きい3人は入れる。我が家のは釜が見える丸桶で小さく1人用であった。小母さんの手はしなやかで白かった、首筋が綺麗だと思ったのが記憶にある。首筋のことを、うなじと呼ぶこと知ったのは15歳になったころだろう。おチンチンに黒い毛がちょろちょろ出てきたころだっと思う。

家の左隣3軒目は小さな魚屋さんがあった。小父さんはいつも捩り鉢巻をし結び目を右耳の上にして威勢のいい格好で魚をさばき、お刺身をお皿においしそうに配置し飾りの棕櫚の葉を山型に切り大根のつまの仕切りしていた。私の家の庭には池の周りに棕櫚を植えていた。小父さんはよくこの葉を貰いに来ていた。小母さんには子供が居なかった。私は可愛がられた。私もよく遊びに行った。そして小父さんの包丁さばきを刺身料理が出来上がるまでの全行程をジット見つめていた。刺身の皿に載せられない端の切り身を私の口に入れてくれた「坊や 美味いか」私は大きくうなずいた。このときの魚は日本海で取れるきすという名の魚であることが大きくなってから知った。私はたびたび遊びに行っては刺身の切れ端を口にしていたのである。出上がった刺身は小母さんが配達していた。

家に帰って「母ちゃん、うちではドーシテ刺身食べないの?」「坊や 母ちゃんが作った刺身食べているからよ」「魚屋さんの小父さんの刺身と違うよ 小父さんのは美味しいよ」

「魚屋さんのお刺身はお金持ちの家から注文をとって、美味しい、お魚を使って調理しているのよ、とてもお金がかかるのよ!」

母は悲しい顔をしていた。私にも食べさせたかったのだろうと母が逝ってから思い出した。

小父さんと小母さんは家の風呂を貰いに来ていたそのときはいつも頭付の骨だけ付いている魚をぶら下げて「奥さん今日はマグロだよ」母はいつもすみませんね~と言っていた。
魚屋さんの家には内風呂がなかったのである。

親孝行したい時には親はなし 

魚やさんの左隣がお菓子・雑貨のお店であった。この家を頂点として道路は左右に分かれているのである。弓矢の矢じりに当たるところと同じである矢じりは空気を左右に分かれる先端である。それでかその店の名前は「角屋」と呼ばれていた。そのころ公衆電話と言えば お医者さん・重役さん・お店屋さん等々お金持ちしか設置していない。魚屋の小父さんの家はその角屋さんの倉庫を改装して商売していた電話注文は母屋の角屋の小母さんが取次してくれた。時々私の家に角屋の小母さんか私と同い年の女の子が電話が来ていますよと取り次いでくれていた。
私は角屋の小父さんも小母さんも大好きであった。夕刻砂山で遊びから帰る道順が角屋の店の前を通ると私を認めた小母さんから声がかかる、時たま「坊や 夕飯一緒に食べて行きなよ」と誘ってくれる。「うん」私は一目さんに家に飛び込むなり「母ちゃん角屋のおばちゃんが・・・」母は知っているよと言って私の汚れた服を取り換え顔をプリプリしてから「お行儀よくいただくのよ」と注意されてからご馳走に出かける。小父さん小母さん○子ちゃんと私4人で夕ごはんをいただくのである。私は遊びのことなどを夢中で話した。

小父さんは男の子が欲しかったことを大人になってから母から聞いた。

小父さんが配達するときは前ハンドルと後部に荷物籠が付いている自転車を使うのである。ときたま私と出会うと「坊や籠にのれや」と言ってくれ前籠の荷物を後部籠に移して私を前籠に乗せ配達にでかけるのであった。小父さんの眼は細くて優しかった、顎鬚が黒く少しのびていた記憶がある。砂利道路を走るのでハンドルが左右に揺れる 私はキャーキャー叫び歓声をあげた。配達が終わったある日小学校の近くにある競馬場に連れて行ってもらった。馬場は黒松林に囲まれていたので見物するだけなら馬場の土手に寝転がって観戦できる、のどかな競馬場であった。団子売りが「団子いらんかね」と言って天秤を担ぎ黒松林を縫うようにして来た。醤油団子と餡子団子二本買って貰って食べた とてもとても美味しかった記憶が残っている
レースが始まると何番が勝つか賭けをした。その日の出来事を母に得意になって報告するのである。母も嬉しそうに聞いてくれた。幼き日の思い出である。

私の家の前を10mばかり行くと新潟中学校のポプラの木に囲まれた校庭と校舎があった。壮年になったころ作家 坂口安吾 氏がここの中学出身と知った。授業をさぼってよく日本海を眺めていたと何かの本で読んだことがある。となれば、家の前の道路を歩き角屋さんのところを右に曲がってまっすぐに砂山に上れる 一つ目の砂山を上ると、ぐみの木と植林したばかりの黒松の林を進む、二つ目の砂山がある。その砂山を越えると日本海が見渡せる晴れた日には地平線に佐渡島が浮いて見える風景は大好きであった。渚まで200mもあったろうか夏の30度近くの日には草履を履いていていても足裏が焼けるようであった。坂口安吾氏もこのような経験をしたのではと思うとうれしい。

2008/05/07

生命時間を過ごすこと

1930年11月ある日の18時30分に私はこの地球に出現し生命時間がスタートした。今日は2008年5月7日である。77年と6ケ月ゆうよの生命時間を経過した。Earthmaruster

村上和雄×葉 祥明著「世界は1つの生命からはじまった」1~2ページに(・・・は略)

遠い遠い、その昔。今からおよそ38億年前。一つの生命が、地球に生まれました。一つの生命(いのち)はその後、3000万種以上もの生き物に分かれてゆきました。・・・・みんな同じ遺伝子暗号を使っているからわかります。・・・・・・・・・・だから地球上の生き物はみんな、兄弟姉妹です。・・・・・

私は38億年前からつなっがっていると思った。私の意思はないのに地球に出現したことになる。一つの生命を偉大な創造主が設計し38億年経過し私とゆう人間が生きている。これを人生と呼んでおり現代の人生は超高齢化を迎えてしまった。加齢するほど苦悩があらゆる面で倍加している、医療費・介護・生と死の心の葛藤等々偉大な創造主はある目的があって設計した人生道であるから私は耐えて耐えて往かねばならない 楽しい時は短く苦悩は長く続くように設計されていると感じる。・・・次回へ続く

**************************************************************************

これから散歩の時間 次回につづくことにしたいが自分にも約束できないが

今日は高気圧に覆われて朝から晴れ気温20度を超えぐんぐん上昇今年一番の陽気である気象異常なのかな夏の天気だよ今日は  寒がりの私がシャツ一枚で暖かい風を受けて散歩 若葉も一段と緑を増し鶯の囀り音量もおおきくなった。

2008/05/04

薔薇木のトゲに思う

Barared 五~六月に咲くバラは香りが特段に好いと私は思っている。ピンクと薄イエロを折り重ねた花びらを持つバラは何とも言えない美しい姿である。

しかし蔓にはトゲがある。薔薇は美しい色彩や香りで昆虫を引き付け。引き付けた昆虫たちに、受粉を助けてもらってさらにトゲは、植物を食い散らしたりする動物から薔薇が身を守る武器でもある。

不思議なのはこのような仕組みを設計したのはだれなのだろう ここに宇宙を感じた。

トゲに注意しながら(このトゲに小指を刺し化膿して指先を切断された人を知っておるので)

美しいものほど自分を防御して子孫繁栄に繋げているものとおもった。

薔薇の香りを胸いっぱいに吸いこんでみる。ここにも不思議を感じた この香りを精製したのはだれなのだろうと 

私は美しい花を観れて香りを感じる幸せを感謝した。弱視者は見えないのである。
五体満足が一番幸せなのだと加齢するほど感ずるこのごろである。

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

幼少の記憶

  • Michio_2

少年時代の記憶

  • Photo_2

次世代の人へ

  • Photo_2

風景写真アルバム

  • Tirusakura
    散歩中の風景写真

こんにちわ

  • Bn_pink3_b

最近のトラックバック

無料ブログはココログ