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2008/05/08

生命時間を過ごすこと その2

発声して乳呑児となり、だれかれとなく可愛がられたようだ、 時は猛スピードで過ぎさりいつのまにか町内の人々から悪戯小僧と呼ばれながらも、自宅の前の家の小母さんには可愛いがられた。「坊、汚いわねお風呂が沸いているから入って行きなさい体洗ってあげるから」たいていはいこの声がかかる時には小父さんが帰宅しない日なのであるこを知っていた。母からは小母さんから誘われてもいっちゃだめよと言われていた。小母さんは芸者であったと大人になってから知った。小父さんではなく旦那さんで小母さんはお妾さんであったのだ。

お風呂で小母さんは私の首筋にこびり付いている垢をへちまに香りのよい石鹸を泡立てて丁寧に洗ってくれた。母の場合はもっと手荒く洗濯石鹸で洗うので異様な臭いがする。小母さんの家の風呂桶は檜の長四角で銅板の縁どりがあり肌触りがいいのであった。檜の香りがするお風呂場で大きい3人は入れる。我が家のは釜が見える丸桶で小さく1人用であった。小母さんの手はしなやかで白かった、首筋が綺麗だと思ったのが記憶にある。首筋のことを、うなじと呼ぶこと知ったのは15歳になったころだろう。おチンチンに黒い毛がちょろちょろ出てきたころだっと思う。

家の左隣3軒目は小さな魚屋さんがあった。小父さんはいつも捩り鉢巻をし結び目を右耳の上にして威勢のいい格好で魚をさばき、お刺身をお皿においしそうに配置し飾りの棕櫚の葉を山型に切り大根のつまの仕切りしていた。私の家の庭には池の周りに棕櫚を植えていた。小父さんはよくこの葉を貰いに来ていた。小母さんには子供が居なかった。私は可愛がられた。私もよく遊びに行った。そして小父さんの包丁さばきを刺身料理が出来上がるまでの全行程をジット見つめていた。刺身の皿に載せられない端の切り身を私の口に入れてくれた「坊や 美味いか」私は大きくうなずいた。このときの魚は日本海で取れるきすという名の魚であることが大きくなってから知った。私はたびたび遊びに行っては刺身の切れ端を口にしていたのである。出上がった刺身は小母さんが配達していた。

家に帰って「母ちゃん、うちではドーシテ刺身食べないの?」「坊や 母ちゃんが作った刺身食べているからよ」「魚屋さんの小父さんの刺身と違うよ 小父さんのは美味しいよ」

「魚屋さんのお刺身はお金持ちの家から注文をとって、美味しい、お魚を使って調理しているのよ、とてもお金がかかるのよ!」

母は悲しい顔をしていた。私にも食べさせたかったのだろうと母が逝ってから思い出した。

小父さんと小母さんは家の風呂を貰いに来ていたそのときはいつも頭付の骨だけ付いている魚をぶら下げて「奥さん今日はマグロだよ」母はいつもすみませんね~と言っていた。
魚屋さんの家には内風呂がなかったのである。

親孝行したい時には親はなし 

魚やさんの左隣がお菓子・雑貨のお店であった。この家を頂点として道路は左右に分かれているのである。弓矢の矢じりに当たるところと同じである矢じりは空気を左右に分かれる先端である。それでかその店の名前は「角屋」と呼ばれていた。そのころ公衆電話と言えば お医者さん・重役さん・お店屋さん等々お金持ちしか設置していない。魚屋の小父さんの家はその角屋さんの倉庫を改装して商売していた電話注文は母屋の角屋の小母さんが取次してくれた。時々私の家に角屋の小母さんか私と同い年の女の子が電話が来ていますよと取り次いでくれていた。
私は角屋の小父さんも小母さんも大好きであった。夕刻砂山で遊びから帰る道順が角屋の店の前を通ると私を認めた小母さんから声がかかる、時たま「坊や 夕飯一緒に食べて行きなよ」と誘ってくれる。「うん」私は一目さんに家に飛び込むなり「母ちゃん角屋のおばちゃんが・・・」母は知っているよと言って私の汚れた服を取り換え顔をプリプリしてから「お行儀よくいただくのよ」と注意されてからご馳走に出かける。小父さん小母さん○子ちゃんと私4人で夕ごはんをいただくのである。私は遊びのことなどを夢中で話した。

小父さんは男の子が欲しかったことを大人になってから母から聞いた。

小父さんが配達するときは前ハンドルと後部に荷物籠が付いている自転車を使うのである。ときたま私と出会うと「坊や籠にのれや」と言ってくれ前籠の荷物を後部籠に移して私を前籠に乗せ配達にでかけるのであった。小父さんの眼は細くて優しかった、顎鬚が黒く少しのびていた記憶がある。砂利道路を走るのでハンドルが左右に揺れる 私はキャーキャー叫び歓声をあげた。配達が終わったある日小学校の近くにある競馬場に連れて行ってもらった。馬場は黒松林に囲まれていたので見物するだけなら馬場の土手に寝転がって観戦できる、のどかな競馬場であった。団子売りが「団子いらんかね」と言って天秤を担ぎ黒松林を縫うようにして来た。醤油団子と餡子団子二本買って貰って食べた とてもとても美味しかった記憶が残っている
レースが始まると何番が勝つか賭けをした。その日の出来事を母に得意になって報告するのである。母も嬉しそうに聞いてくれた。幼き日の思い出である。

私の家の前を10mばかり行くと新潟中学校のポプラの木に囲まれた校庭と校舎があった。壮年になったころ作家 坂口安吾 氏がここの中学出身と知った。授業をさぼってよく日本海を眺めていたと何かの本で読んだことがある。となれば、家の前の道路を歩き角屋さんのところを右に曲がってまっすぐに砂山に上れる 一つ目の砂山を上ると、ぐみの木と植林したばかりの黒松の林を進む、二つ目の砂山がある。その砂山を越えると日本海が見渡せる晴れた日には地平線に佐渡島が浮いて見える風景は大好きであった。渚まで200mもあったろうか夏の30度近くの日には草履を履いていていても足裏が焼けるようであった。坂口安吾氏もこのような経験をしたのではと思うとうれしい。

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コメント

 文芸作品になってもおかしくない体験ですね。「うなじ」という言葉を知ったのはいつごろだったかなあ。

schmidtさん コメントありがとうございました 続けてみます。うなじ 好い言葉ですね性を感じさせる

 何となく森鴎外の小説「雁」を思い起こしました。

watari14さん 光栄ですね 森 鴎外著 雁 を思い出していただけるとは 書き続けていると不思議ですね 新たな思い出が浮かんでくるのですね 題名を別にしないと混線してしまいそうです。コメントありがとうございました。

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