« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月

2012/08/08

幼少の頃の思い出

♪たなばた♪「ちーちゃん's homepage から」
「ctanabat.mid」をダウンロード

今年も7月7日、天の川を隔てて輝く、彦星と 織姫が 一年に1度だけ逢うことを許された夜空を仰くことができた。遠い忘れ得ぬ、幼少の頃を思いでを描いてみたい。 大正・昭和の尋常小学校の文部省唱歌教科書の童謡が今でも愛唱されています。当時文部省では学童達が大きくなり歳を重ねて行ったとき心に沁み入る童謡を思い出させ、過ぎ去った生命の歌をよみがえらせ生きる勇気与えるための童謡を 学童に教え込んだと聞いたことがある。現代の文科省とはずいぶんと違う「心にしみる」指導をしていたものである。

岩手大学合唱団第56回定期演奏会 童謡・唱歌四季のメドレー ♪

故郷・朧月夜・冬景色・春よ来い・里の秋 等々人生の生命が入り込んでいる詩・と曲ばかりである 仕事もすでに終わりすべてなし終えて82歳になんなんとする私は学童のころ習った童謡を口ずさむことが多くなった。

1:童謡は心を鼓舞する神

子供たちに伝えたい 日本の童謡 池田小百合著 実業の友社
234ページ あとがき を読んで人生と童謡の出会いが如何に癒やされるかを知った。
{池田小百合さんは次のように言っておりました。
人生で、童謡との出会いは、三回あります。
一回目は幼児期です。母親や周りの大人が歌う童謡を聞き、覚えたうたを歌を歌うようになります 
二回目は、成人して家庭を持ち子供が生まれたときです。自分が覚えた歌を子どもに歌ってあげるのです。演歌や軍歌ではなく、やさしい響きの童謡を歌ってあげると、子どもはその肉声にふれて心を成長させるのです。
三回目は、高齢になってからです。かって歌った童謡を聞くと、過去の楽しい思い出がよみがえります。苦しかったことも歌が癒してくれます。}
四年前のブログ記事に書いたが思い出を再編集し記事にした。
  私の住んでいた町内には、お医者さん・会社の重役さん・地主さん等お金持ちの多く住んでる新興高級住宅地であった。父親はしがないサラリーマンをしていたのに高級住宅地に小さな家を建てた。右隣は会社重役さんの立派な家なので見劣りがした。左隣は味噌・醤油を販売している、お店屋さんであった。

2:幼少の頃の隣近所の情景

  私は悪戯小僧であったようであったが”坊や坊や”と可愛がられていた。家の真向かいの家は黒塀に囲まれた綺麗な日本家屋であった。いつも美しい着物を着た小母さんが一人で住んでいたが、時々身なりのよい小父さんを見かけた。
その小母さんに私には特別に可愛いがられていた。遊び疲れて帰ってくる姿を見るにつけ小母さんは「坊、坊、汚いわね~お風呂が沸いているから入って行きなさい体洗ってあげるから」
たいてい、この声が、かかる時には、小父さんはいない日であるこを知っていた。母からは、小母さんから誘われても、いっちゃーだめよと、きつく言われていたがお風呂を上がってからお菓子が貰えるので母に叱られるのを覚悟して誘いに乗った。

 お風呂で小母さんは私の首筋に、こびり付いている垢を”へちま”に香りのよい石鹸を泡立てて丁寧に洗ってくれた。母の場合はもっと手荒く洗濯石鹸で洗うので異様な臭いがする。小母さんの家の檜の香りが漂う風呂桶は、3人は入れる、大きさの長四角の風呂桶で銅板の縁どりがあり肌触りがまことに、良かった。

それに反し、おれ家のは、杉の丸い風呂桶で1人用の上に釜が見える大人は膝を曲げ縮こまって入らなければならなかった。
小母さんの白い手はしなやかであった。首筋が白く長いと思ったのが記憶にある。”首筋のことを、うなじと呼ぶこと知ったのは15歳になったころだろう。”おチンチンに黒い毛がちょろちょろ出てきたころだっと思う。
私が成人してから知ったことだが、小母さんは芸者育ちのお妾さんであったと聞いた。ときおり見かける小父さんがいるときには小母さんは私の姿を見ても誘ってはくれなかった。小父さんが来てるときにはお菓子が貰いないので面白くなかった。小父さんが来ているときは俺は邪魔者だったのだ!

 家の左隣3軒目は小さな魚屋さんがあった。小父さんはいつも捩り鉢巻をし結び目を右耳の上にして威勢のいい格好で魚をさばき、お刺身をお皿においしそうに配置し飾りの棕櫚の葉を山型に切り大根のつまの仕切りにしていた。私の家の庭には池の周りに棕櫚を植えていた。魚屋の小父さんはよくこの葉を貰いに来ていた。小母さんには子供が居なかった。私はこの小母さんにも可愛がられた。私もよく遊びに行った。そして小父さんの包丁さばきを刺身料理が出来上がるまでのをジット見つめていた。刺身の皿に載せられない端の切り身を私の口に入れてくれた「坊や 美味いか」私は大きくうなずいた。このときの魚は日本海で取れる「きす」という名の魚であることを大きくなってから知った。私はたびたび遊びに行っては刺身の切れ端を口にしていたのである。美しく皿盛りされた刺身は小母さんが配達していた

家に帰って「母ちゃん、うちではドーシテ刺身食べないの?」「坊や 母ちゃんが作った刺身食べているでしょう」;;;「魚屋さんの小父さんの刺身と違うよ 小父さんのは美味しいよ」

 

「魚屋さんのお刺身はお金持ちの家から注文をとって、美味しい、高いお魚を使って調理しているのよ、とてもお金がかかるのよ!」

 母は悲しい顔をして答えた。私にも食べさせた、かったのだろうと母が逝ってから思い出した。

 小父さんと小母さんは家の風呂を貰いに来ていた。そのときはいつも頭付の骨だけ付いている魚をぶら下げて「奥さん今日はマグロだよ」母はいつもすみませんね~と言っていた。
魚屋さんの家には内風呂がなかったのである。

 魚やさんの左隣がお菓子・雑貨のお店であった。この家を頂点として道路は左右に分かれているのである。弓矢の矢じりに当たるところと同じである矢じりは空気を左右に分かれる先端である。それでかその店の名前は「角屋(かどや)」と呼ばれていた。そのころ公衆電話と言えば お医者さん・重役さん・お店屋さん等々お金持ちしか設置していない。魚屋の小父さんの家はその角屋さんの倉庫を改装して商売していた電話注文は母屋の角屋の小母さんが取次してくれていた。時々私の家にも角屋の小母さんか私と同い年の女の子が電話が来ていますよと取り次いでくれていた。
のどかな時代であった。底辺に強いが叫ばない太い絆があった。
私は角屋の小父さんも小母さんも大好きであった。夕刻、砂山で遊びから帰る道順が角屋の店の前を通るのである。私を認めた小母さんから声がかかる、時たま「坊や 夕飯一緒に食べて行きなよ」と誘ってくれる。「うん」私は一目さんに家に飛び込むなり「母ちゃん角屋のおばちゃんが・・・」母は知っているよと言って私の汚れた服を取り換え顔をプリプリしてから「お行儀よくいただくのよ」と注意されてからご馳走に出かける。小父さん小母さん○子ちゃんと私4人で夕ごはんをいただくのである。私は遊びのことなどを夢中で話した。
同い年の○子ちゃんはどーしているだろうか、かもう八二歳のお婆ちゃんである。

小父さんは男の子が欲しかったことを大人になってから母から聞いた。小父さんが配達するときは前ハンドルと後部に荷物籠が付いている自転車を使うのである。ときたま私と出会うと「坊や籠にのれや」と言ってくれ前籠の荷物を後部籠に移して私を前籠に乗せ配達にでかけるのであった。見上げて見る、小父さんの眼は細くて優しかった、顎鬚が黒く少しのびていた記憶がある。砂利道路を走るのでハンドルが左右に揺れる 私はキャーキャー叫び歓声をあげた。配達が終わったある日小学校の近くにある競馬場に連れて行ってもらった。黒松林に囲まれていた競馬場であった。見物するだけなら馬場の土手に寝転がって観戦できる、のどかな競馬場である。団子売りが「団子いらんかね~」と言って天秤を担ぎ黒松林を縫うようにして来た。醤油団子と餡子団子二本買って貰って食べた とてもとても美味しかった記憶が残っている
レースが始まると何番が勝つか賭けをした。その日の出来事を母に得意になって報告するのである。母も嬉しそうに聞いてくれた。

 私の家の前を10mばかり行くと新潟中学校のポプラの木に囲まれた校庭と校舎があった。壮年になったころ作家 坂口安吾 氏がここの中学出身と知ったと知る。授業をさぼってよく日本海を眺めていたと何かの本で読んだことがある。となれば、家の前の道路を歩き角屋さんのところを右に曲がってまっすぐに砂山に上れる 一つ目の砂山を上ると、ぐみの木と植林したばかりの黒松の林を進む、二つ目の砂山がある。その砂山を越えると日本海が見渡せ晴れた日には地平線に佐渡ヶ島が浮いて見える絶景である。渚まで200mもあったろうか夏の30度近くの日には草履を履いていていても足裏が焼けるように熱いので飛び跳ねながら渚まで走る。

3:尋常小学校入学

    幼き日も過ぎ小学校に行く歳を迎えた。小学校入学のための身体検査が学校の医務室で校医により行われることになった。私は母に手をひかれながら学校に向かった。家から南へ2.5kmの砂利道を歩く、500m行けば家並みはなくなり畑が連なる。右手300mには砂丘が見える。これを越えれば日本海である。学校までの道路は日本海と並行している。だから日本海からの春のやさしいし潮風が頬を撫でてゆくのである。菜の花畑や西瓜畑がつらなっている。母は鼻歌を歌えながら私の手を大きく振って歩いてくれた。高学年になってこのとき歌っていた曲は「おぼろ月夜」であったことを知った。死ぬまで忘れえぬ思い出の曲となった

校医が私の耳を見て「これは!お母さんこの子の耳垢を見てあげなかったのですか?」母はこの子は暴れん坊で絶対嫌がるんですよ!と言っていたようだ。校医は耳垢をつまみだして母の手のひらに乗せた。母の驚いた顔をして取り出された茶色の塊を見詰めていた。耳穴がほとんど垢で塞がっていたのである。 

帰り道の音の情景は全く変わった!!。私は「母ちゃん海の方から聞こえる音は波の音か」

 「あら!坊や聞こえなかったの 良かったわね 今度からは暴れないで耳垢、掃除させてね暴れて鼓膜を破いたら大変なんだから」
このときの驚きは今でも鮮明に覚えているのである。下校の時の母の歌声は登校時より、ずっと綺麗にはっきり聴こえ、だれよりも美しい声と顔をしていると思った。 
あの思い出から75年を経た私の聴覚は聞こえが悪くなり、なおかつ耳鳴りがうるさくなってきているが。脳にはこの時の音を鮮明に高音質で録音されているのである。

 登校時には各町内の学童ごとに、かたまって道草くいながら、ふざけあって行くので時間を充分取って自宅を出るように自然と時刻が設定されていた。学校をめざして各町内ごとのグループが校門をくぐるのである。 

4:遊び三昧

学校を取り巻くようにある畑は地主さんから土地をかりて農業をされておる人が相当昔から集落を形成していた。だから言葉のアクセントも違うのである。ここから通学する一人、勇君と気があったのか言葉をよく交わすようになった。 

ある日、勇君は私に問いかけた「な、うち、いんが、いっか」と言った。私には通じないのでポカンとしていた。また少し語気が強くなって「なうちいんがいっか!」その怒ったような語気に恐れをなした私は黙って理解できぬまま頷いた。勇君はニッコリして今度の日曜日「なうんちに遊びにゆくから」私は、また だまって頷いた。なにがなんだかわからないまま日曜日勇君と遊ぶことだけは分かった。

「ただいま」元気なく帰宅した。シェパード犬で名前はドロップである。私が帰るとワンワンとシッポ振って吠える。元気のない「ただいま」を不審に思ってか、「母はなにかあったの?」と言う、私はこれこれ云々と答えた。
母は大笑いしながら通訳してくれた「お前の家に犬がいますか」日曜日に遊びに行くから犬を見せてくれ と言う事よ 私は犬のことをインガという言葉を初めて知った、ようやく理解でき勇君が家に遊びに来たらドロップを連れて裏の海岸で遊ぶ計画を建てた。母はお弁当を用意するよと言ってくれた。嬉しい元気が出た。ドロップは軍用犬として訓練されているので学童の私でも
命令すればよく動く 
そのころ家の裏窓からの風景は、もやし畑が200mくらい続いているその先は高さ5mくらいの砂山が海岸線にそって横に広がっているのが見渡せる。ニセアカシヤの木や黒松が植林されて数年しかたっていなく樹高は低かった。アカシヤの木だけは4m位のものもあったと記憶している。この記憶の証明はチャンバラごっこのための必須の道具である刀をニセアカシヤの木の刀らしい枝ぶりを探し、折って樹皮を剝く、そのときのアカシヤの青臭い独特の香りをいまでも忘れない。長刀・短刀を作り母が仕立ててくれた着物の帯に重々しくゆっくりと差し、
足袋を履くと、心は、いっぱしの武士になったと思い込んでいた。
 

小刀で枝を切っているとき、手元が狂い太ももに、小刀の切っ先が刺さり血がでたが手ぬぐいで縛り止血した。その傷跡が今でも残っている。懐かしい傷である。

このチャンバラ遊びも紙芝居のおじさんの拍子木の音が聞こえてくると同時に、チャンバラは即中止し戦場の砂山から町の道路脇に設置される紙芝居の場所に刀を引っさげて、走る。そこには小さい子供たちや女の子が集まっている。私は背の低い子を前に整列させ背高の順に見物席が出来あがる。小父さんは黄粉飴を観覧料と引き換えに渡す。これも大きな大きな楽しみであった。 

町内の子供を集めては夕刻までいろいろの遊び方を見つけてはよく遊んだ。
「時々母に注意された。貞二ちゃんが帰ると言った時にはすぐ帰すのよ」私は町内の餓鬼大将になっていたので遊び途中から帰る子には厳しく注意していたようだ。

ある日、遊びから外れた子の家に行きその子のお母さんに談判に行ったことがあった。母にそのお母さんから苦情があったと、大きくなってから聞いたがそのことの記憶は私の脳内にはない。母はお菓子折を持って謝罪に行ったと言う 私の記憶にないのは母が私を叱らなかったからであろう。 

帰宅の促す声が各家から聞こえてくる(マサオ~帰れ~~ゞ・・・・)夕刻近くまで遊んだ。私は一人になっても明日の遊びを計画するのが好きだった。刀になりそうな枝ぶりを見定めたり、砂山を一部平地にするためトロッコによる砂運搬作業を見物して何時か乗ってみようと思った。夕方には作業員が引き上げてからが乗ることができるチャンスなのである。ある日、親しい友三人でトロッコを押し上げた。車輪はごろり、ごろりと廻り緩やかな勾配をゆっくり登っていった、登り切ったところで三人一緒に飛び乗る。トロッコは線路を下り始めた!たまらなく面白い時間を忘れて何回も押しあげては乗り、遊んでいた。うす暗くなったころ、帰ってこない私を8歳上の姉が迎えにきて「坊やもう帰りなさい!」と叱られることがたびたびであった。 母が病弱であったので幼児の頃は姉の背におんぶしてあやされていた。姉は今でも元気で八二歳の私を呼ぶときには「坊や」である。人が聞いたら驚かれるであろう。

5:季節の情景

秋の夕日の映える時は砂山が赤く見えた みんなの笑顔も赤色に見えた。 

黒い電線に赤とんぼが同じ方向に整列してとまる。赤い電線となる。
空中には鬼やんま・塩カラトンボ等がすいすい行き交う これを捕獲する方法は、糸の両端に石を結ぶ 当時は砂利道であるので捕獲用の石はふんだんにあった。細長い石がよいのである。両手で左右の石を持って鬼やんまが飛来する寸前に上空高く放り上げる。トンボは石を餌と思って飛びかかると糸が羽根に絡まれば成功である。成功率は高くなかったが成功した子供の歓声が上がる 家に帰って昆虫の標本にするのである。
 

日が落ちる頃になると、決まって畑の肥料を荷台に満積した牛車が肥料のくさい臭いを発散させながら砂利道に車音を大きく軋みながら通る。 

トンボを捕獲できなかった私の前を牛が大きな尻尾を振り上げると同時に巨大な糞をボトボトと落下させた私は腹いせに牛の大きな糞を板きれに乗せ空高くフオリ上げた。 

空をに向かい唾を吐けば顔に唾が降りかかるの格言にある通りのことが起きた。その落下してきた糞がまともに私の天を見上げている顔にビシャリとホットドック状に付着したのである。友はキャーと言って逃げて行った。泣きべそをかきながら家に飛び込んだ 母は仰天した。 夕飯の支度中であった母に叱られながら外に連れ出された。バケツでお風呂の湯を頭から浴びせられ風呂場で洗濯石鹸でごしごし時間をかけ洗浄された。母も私も臭い臭いと連呼し続けであった。

牛の臭いは数日たっても皮膚に染み込んで取れないものであることを知った。今でも老化した脳にも、その臭いをはっきり記憶されているのである。いまでも牛を見かけるたびに思いだす。

越後の冬は厳しい 
私が尋常小学校一年生の吹雪の日の登校の記憶は忘れ得ない。当時の積雪は3m位はあったのではないかと思う。私達は道路より3mも高い雪道を歩くことになる。電信柱の電線が右横に見えるように登下校したことを記憶している。町並みをはずれると砂山から吹き下る吹雪が顔を襲い白い睫毛となる。高学年の児童が先頭にして積雪をラッセルして一列縦隊で、ただ、もくもくと歩く、私の体は冷たく泣きたくなったが学校の校門が見える頃にはみんなの体から湯気が立つ、私も体が温かくなり元気がでていた。裸足の子も多くいた。運動靴などない時代である。
 

教室に入るとダルマストーブに小使さんが”火だね”を入れていた「お早うございます」の挨拶をする。「今日も寒かったろう、もうすぐ暖かくなるよ」と笑顔で答えた。石炭がちょろちょろ燃え上がっていた。ストーブの脇に昼のお弁当を温めるための棚があった。 

その棚に弁当を置くのであるがその場所は学童の勢力ある者が決める。当然
勢力のある者がストーブの熱を多量に受ける場所に入れるのである。相撲の番付みたいなものである。
 

お昼時間になると猛吹雪を乗り越え登校し腹を減らしている学童は一斉に弁当の蓋を開ける。横綱級の者の弁当からは湯気がもうもうと立っているフーフーいいながら食べ始める。しかし幕下級の者の弁当からは湯気は立っていない少しだけ暖まっているだけである。上位を占めている者は集落からの学童が多かった。私は町ではの餓鬼大将ではあったが集落の餓鬼大将には抑え込まれていた。 

ときたま、横綱から、おい「今日はここに入れれや」と最高の場所を提供してくれた。当時は陰惨ないじめなどは皆無であった。やさしがあった。

友と今日の遊びの仕方を話しながら下校する。自宅の玄関で「ただいま」と言うと同時にランドルセルを廊下にほおり投げ「スキーに行くよ」と大声で叫び竹スキーを持って裏の砂山に駈けてゆくのである。

 

雪が降ると町並みも砂山もすべて白一色となり空はどんよりとした厚い灰色の雲に覆われた風景となる。冬は薄暗い日が続く裏日本特有の気候である。ときおり太陽が顔を出す時には遊びが活発になる。心は躍った。

チャンバラは春秋に、夏は裏浜で海水浴が主体の遊びで冬はスキーである。私のスキーは竹で作った手製のもので、ただ竹を割っただけである。お金持ちの子はスキー靴を履き格好よく滑走している姿を見てうらやましかったことを覚えている。スキー場は家裏の砂山である。 

三月に入ると道路の雪が溶け出してくる日がある。これは春が近くにやってきたと告げている証拠である。冬国で育ったものでなければこの嬉しさは分からない。言葉では現わすことはできない。道路に土が見えてくると早速、長靴から高歯下駄に履き替え歩くのである。 

この感触も経験せねばわからない。それは長靴を冬場中履いていて歩くので、ときには滑るので注意しながら常に歩いているのである。高歯下駄に履き替えて着地するときの感触はまさに地球の引力を感ずるのである。足が大地にしっかり杭いこむ感じである。今でもこの感触の素晴らしさをしっかりと覚えている。春が大地から来たと思う瞬間でもある。

6:鯉のぼり

五月は端午の節句を迎える。男の子の成長を祝って揚がる鯉のぼりは、大きな家ばかりである。私は母に「鯉のぼり買って!」と何度も頼むが返事は何時も同じである。 

「お隣の家は大きいでしょうお庭も大きいし、お金持ちなのよ うちはお庭も小さいでしょうお金もないし、大きな鯉のぼりは揚げられないのよ」 

私は諦められなかった。広告用紙の裏の白紙にマゴイとヒゴイの画を描きクレヨンで色づけしハサミで切り抜きそれを物干し竿の先端に付け門に紐で括り付けた。五月の風は暖かく優しく吹いている。私の鯉のぼりは紙製なので見事に旋回しながらオモシロイ泳ぎをした。隣の店屋の小母さんに「あら!立派な鯉のぼりね」と誉めてくれた私は有頂天になり母を呼んだ。「坊 やったはね いいわね 立派に泳いでるじゃないの」そして歌ってくれた。 

甍の波と雲の波 

重なる波の中空を、 

橘かおる朝風に、高く泳ぐや、鯉のぼり 

私は嬉しかった 自分で作った鯉のぼりを誉めてもらったうえに歌まで歌って貰ったことを終世忘れ得ない思い出である。高学年になって学校の音楽の時間に習った。母の歌ってくれた曲名は♪鯉のぼり♪であることを知った。

7:男女共学

昭和16年4月1日から国民学校と改められた。男女共学制度導入された。試験運用のためか1クラスだけが共学となった。私はそのクラスに指名された。男子・女子と一列交互の席である。私の前の席には同級で一番と評判の可愛い子の席であった。毎朝登校するのが楽しくなったのは、その子は毎日黒い濡れ羽色の髪形が ・お下げ・編みあげ・おかっぱと変わるのである。私の目の前の子の髪形を美しいと思った。心ときめくとかそのような青春の感覚はなかった、ただただ女の子と言うものはこれほど髪型にこだわるのか不思議であると思ったのである。そして黒髪の美しさが目の前にある!やはりときめきを感じた。大きくなって「カラスの濡れ場色」という言葉を覚えた。言い換えれば「カラスの濡れ場色」を授業中眺めその美しさにひかれていた。ということになる。 

確か70歳を迎えた同級会で その子が出席したので尋ねてみた。周囲の者も同じ疑問を持っていたと見え、聞き耳を立てていた。その子のお姉さんが毎朝、髪結してくださったとの事であった。
姉妹ではお姉さんの存在がありがたいことであることを知った。

8:魂の友との別れ

人生の流れで記憶に最も大きく残るのは小学校を卒業するまでであると思う
だから、幼年時代の友は魂の友である。忘れ得ぬ友である。
平成12年12月肝臓を患って入院していた私とおなえ歳、八二歳の友から電話があった。沈んだ声で言った。

「これから手術だ元気が出ない・・でな~声を聞きたかったよ」私は「そうか」といったぎり言葉が見つからなかった。じゃあ~と言って受話器を置く音が聞こえた。数日後私は、お会いしていない息子さんから電話が入った。父が逝去しました。父の財布の中に私の名前と電話番号を記した紙片が入っていたのでおしらせします。父とのご関係は?と問われた。私は即座に答えた 魂の友です。

魂の友との別れは言葉が見つからないほどの寂しさが襲います。

 方丈記の序文 
ゆく河のながれはたえずして、しかも、もとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたの、かつきえ、かつむすびて、ひさしくとどまることなし。よの中にある、人のすみかも、また、かくのごとし。・・・

ご視聴いただきありがとうございました。感謝いたします。

 

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

幼少の記憶

  • Michio_2

少年時代の記憶

  • Photo_2

次世代の人へ

  • Photo_2

風景写真アルバム

  • Tirusakura
    散歩中の風景写真

こんにちわ

  • Bn_pink3_b

最近のトラックバック

無料ブログはココログ