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2012年12月

2012/12/31

戦中戦後を生きた少年の記憶 最終回

今日は2012年12月31日大晦日に戦中戦後を生きた少年の記憶の最終回となった。

戦中戦後を生きた少年の記憶を搾り出して記事にしてきたが書いているうち、頭が痛くなってしまった。

そして昨日のような出来事のように思えたのである。

一瞬 少年の時の感覚になってしまった。

今から64年前が18歳だった。庭球部員10名であったが7名の友が逝ってしまった。主将組2名と後1名の3名が生きている。

散る桜残る桜も散る桜のたとえどおり「人は生まれてすぐ死の旅にでる」

15歳から18歳までの水々しい感覚を一瞬でも思い出したことは幸せであった。

そして記憶をクラウドに記録した。

終世忘れえぬ雪国の風景を水上 勉 氏の言葉を最後にお借りして「戦中戦後を生きた少年の記憶」を終了。読んでいただいた方々に心から感謝いたします。

・・・・日本海は、時には荒れ、時には晴れ、時にはくもりするうつろいやすい空で、今日も、不変の波を打ちよせつつ、有為の山河を抱く。
げに、日本海は、変わりゆく日本で、失いつつある人の美しい暮らしを、いましばらく保ち得て、きらめくような四季を温存している。・・・

女性の浜辺のシルエットに、まなこが潤む 遠い遠い あの日

YouTubeから浜辺の歌 を共有させていただきました。

2012/12/30

戦中戦後を生きた少年の記憶その六

何時だったか記憶から消えたが化学科の上原君(?)から家に遊びに来ないかと誘われた。師範学校の近くに彼の大きな家があった。

私が生まれて初めて聴いた感動の時であった。それは大きな電気蓄音器があった。棚には沢山のレコードケースが整然と並んでいた。私は唯唖然としていた。

彼は言った。クラッシックは好きか?と私はクラシックなど解からないので大きく首を左右に振った。

俺の好きな曲かけてみるなと言って レコードにそっとアームの針を溝に乗せた。

ベートーベンの田園交響曲だよ 私の脳にあらゆる情景が浮かび上がってきた。
家の裏の黒松林から日本海の春の情景が浮かんでいた。

特に第二楽章がすっかり惚れ込んだ。

増幅器の製作を始めた”807A”という真空管を出力に採用して製作した。夜に聴く時には、思わず部屋の明かりを消して聴きたくなるような、 真空管のソフトなオレンジの灯りに、ノスタルジーさえ感じさせられる。スピ-カ-ボックスはリンゴ箱に綿を張りスピーカを取り付けた。

小遣をためてベートーベン田園交響曲のレコードを買ってきた。

毎日帰宅するとすぐ手作りのアンプの電源を入れる。真空管のフィラメントがぽーと赤くなりピンピンとかすかに音がする。暫く時間をおいてから、レコードに針をそーっと落とす。私の至福の時間となった。ボリュームを大きくして聴いていた。

二十日くらいたった頃だろうか家の前で女学生の制服を着た人が立っていた。レコードをかけた時だけたっているようなのであるそして時間は午後4時頃この曲をかけるときと決まっていた。

一枚しかないレコードの田園交響曲ばかりである。この曲をよほど好きな人なのだろうかと思った。

一ヶ月も過ぎた頃だった。わたくしが曲をかけたまま外に出た。彼女ニッコリしていった。「いい曲ね」・・・「俺も好きなんだよ」と言った。彼女は典型的な色白の新潟美人だった。目がパッチリとしていた。そして自分の写真を私によこしてくれた。

この写真は私のアルバムに貼ってある。もう六〇年以上でセピア色になってる。

秋頃から姿が見えなくなった。どーして写真などくれたのか いまだにわからない。

でも私と同じ田園交響楽が好きだったことに心の共鳴はあったが交際の進展はなかった。今思う 交響曲第2番にふさわしいと思った。

私と同じ歳だとすれば82歳のお婆ちゃんになったであろう。どーしているであろう

逢いたくなった気持ちが湧いてきていた。

YouTyubeにレコード盤の曲がアップされていた。お借りしたので聴いてみた。なつかしい!!

下記田園交響曲第2番の文字をクリックしてください。

アナログレコードの針音はなんと!!心に響く!

田園交響曲第2番

ハンス・シュミット・イッセルシュテット&ウィーン・フィルハーモニー

2012/12/29

戦中戦後を生きた少年の記憶 その五

第3回国民体育大会(福岡)

1948年昭和23年9月26日(福岡市 東公園軟庭コート)開催された。

新潟県軟式庭球代表高校に県優勝校である新潟県立工業高校 山田・大平チームほか

二高校が選出された。国体は県ごとの団体戦である。

初戦の県は優勝校にランクされている三重県であった。

試合前スクラムを組み気合いを入れた。

初戦に三重県に勝ったのだ!!!そして勝ち進み岡山県に準々決勝に対戦したが敗退した。岡山県が優勝した。

 

新潟はベスト8で終わった。

 

テニスコートの土方工事で作ってそして筋肉の付いた体で猛練習をし、手取り足取り、
教えて頂いた師範学校の先生に心からお礼を言った。

地方紙に下記「概評」記事を読んで嬉しかった。六六年前の新聞はセピア色になっている。

記事に山田・大平組の概評が載っていた。

Photo

新潟軟式庭球の有名高校にのし上がっていた。新潟県立女子高校のコーチに招かれた。

初めて女子高校にチーム共々行った。そのときの印象が忘れられないのである。
校舎の中に入ったとたん異様な匂いが鼻をついた。

「みんな顔を見合わせた。」「なんだ~」この「匂い」 女性のフェロモンの匂いと後でしった。

練習の後,浜辺の防風林(黒松林)で「食パン」をご馳走になった。食パンの味を知ったのはそのとき初めてだった。塩風がやわらく頬をなでてゆく中で美味しく沢山いただいた。そして新潟美人揃いだった。

平和とは素晴らしいと心底から喜びが沸き上がったのである。15歳で呉海軍工廠で旋盤作業していたことが夢のようだった。

18歳で栄冠を勝ち取った。あまりにも落差の大きい時を過した。

戦中戦後を生きた少年の記憶 その六 へつづく

 

2012/12/25

人の一生は一瞬に過ぎ去る

14年前の平成10年10月1日現在 総務庁統計局作成した人口構成を見た。

少子高齢化が進み日本は衰退の一途をたどることをしめしている。

世界平和が大きく芽生えることを祈願している。

Photo_4

A・スマナサーラ長老 氏の十種類の悪行為言葉を読んだ。考えさせられる十種類の悪行為である。

 十種類の悪行為とは、

 一 殺生(せっしょう) 生き物を殺すこと。
 二 倫盗(ちゅうとう) 盗むこと。
 三 邪淫(じゃいん) 邪まな行為。
 四 妄語(もうご) 嘘をつくこと。
 五 悪口(あっく) 悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。
 六 両舌(りょうぜつ) 人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。
 七 綺語(きご) 意味のないことを話すこと。無A・スマナサーラ長老駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。
 八 貪欲(とんよく) 強い欲望(abhijjhâ)
 九 瞋恚(しんい) 強い怒り(vyâpâda ビャーパーダ
 十 邪見(じゃけん) 見方が間違っていること(micchâditthi ミッチャーディッティ
 
 この十種類のうち最も重い罪は、貪欲・瞋恚・邪見です。その中でも最も重いのは、邪見です。

ラジオのニュースを聞いていると現在の世界情勢はあまりにも悲しくせつない。

後5日で平成24年も去る。

2012/12/24

戦中戦後を生きた少年の記憶その三

1、日本敗戦

呉海軍工廠から帰って自宅に2~3日間過ごした頃だったと思う。アメリカの新型爆弾が落ちるから急遽疎開せよと町内から連絡があった。私は母から家で飼っていた鶏を連れて行くわけに行かないから始末しなければと言っていた。自宅には母と私だけであった。父は何時もいなかった。父の周辺には何時も女匂がただよっていた。その上に教養がない父が私は大嫌いであった。

母から鶏を始末するよう頼まれた。私は苦しんだ。始末しなければ鶏は餓死する。
幼い頃よく草むらで蛇と遭遇したとき殺してしまったことの情景が思い出された。しかし鶏には愛着があった。それに食糧不足の時代に鶏の卵は貴重な栄養源だったのである。
意を決して床の間に飾ってあった。日本刀の短刀で始末をすることにした。
庭にお墓を造り鶏の骨を埋め 祈りをささげた。

母と一緒に避難に指定された田舎の小学校に向かった。小学校の名前は記憶にはないが屋内運動場に沢山の避難者がいたことはぼんやりとだが覚えている。

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分広島市に新型爆弾が(これが原子爆弾だと後で知った)投下、また長崎市への原子爆弾が8月9日午前11時02分投下された。人類は核という「神」の分野に入り込んだのである。人類総破滅の始まりであるとおもった。

疎開先で昭和20年8月14日午後9時ラジオのニュースと15日午前7時21分のニュースで天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず天皇の声(玉音)を拝するように」国民がもれなく放送を聞くようにとの知らせがあった。

1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、ラジオ放送を私は起立して聞いていたが雑音が多く良くわからなっかたが日本が無条件降伏をしたことなのだとわかった。目から涙が溢れ出た。負ける戦争であることがわかっていた。

2012年(平成24年)12月24日にYouTyubeで明瞭に昭和天皇、声(玉音)放送を聞けた。

2012/12/21

呉海軍工廠動員解除から帰郷までの記憶

呉港には戦艦大和ほか大小のさまざの艦船が数多く浮かんでいた。岸壁に繋留しているのは掃海艇が多かったと・・ぼんやりだが脳内映像に残っている。

毎日、何回かアメリカの艦載機が襲来して機銃掃射を受けていたことをはっきりと記憶にある。私は防空壕に逃げ込んで体を丸く縮めて震えていた、防空壕の入り口からみえる工場の道路に艦載機から放つ弾が豪雨のように弾丸ヒューヒューと恐ろしい音を発しながら降ってきてコンクリート道路を突き破りコンクリートの粉を吹き上げていた。と同時に私の体に異変が起きていた。それはオチンチンが異常に膨張していたのである。「後に知ったことだが男性が瀬戸際の危険状態になると”種保存本能”が働くからだと」

日本の戦闘機の応戦は全くなかった。日本は負けるのだと深く思っていたがその言葉を発したら憲兵に捕まる。

空襲解除後に職場に戻る光景は地獄絵であった。対空機銃砲を握ったまま複数の兵士が血を噴き出し戦死していた。機雷に触れて死んでいった級友達のことがよみがえった。

ある日はっきりした記憶にはないが1945年6月のある日だったとおもう、動員生徒は帰郷せよ!の命令があった。理由は「アメリカの新型爆弾が投下される」・・・?

旋盤の作業が最後の日に、あの「特攻隊員が荷物をぶら下げて」私の防空頭巾の綿を取り出し綿のように柔らかい「ほまれ」と呼ばれる刻みタバコを入れ始めた 私はPhoto_2驚いてみていた。そしてチョコレート・羊羹などを入れ始めた。また驚いた。

終わってから言った。                                       煙草ほまれ・写真はふくしま戦争資料館HPより

「今日でさよならだ!門をでるとき衛兵がいつもの持物検査をするだろうが平気な顔をしていなよ。 防空頭巾は「ほまれ」でやわらくなっているから心配するな」 寄宿舎のある近くの農家に行ってこうゆうのだ」

「帰郷することになった。帰郷の日に白米のおにぎりをリックにつめてくれといって防空頭巾の羊羹・チョコレート タバコを全部をだまってわたしなさい」お百姓は大変驚くと思うが喜んで”おにぎり”を作ってくれるだろうから」「理由はゆうなよ」 防空頭巾に綿をつめたら寄宿舎に帰れ!
わたくしは 深く頭をたれ、お礼を言った。涙はでなっかた。そして特攻隊員の背筋をピンとのばして去っていった後ろ姿を視界から消え去るまで見つめていた。魚雷発射管の旋盤をかけた面が銀色に輝き天井の電灯の光を反射して美しかった。私の工作した光 よさようならと呟いた。

幼い頃 角屋(幼き日の思い出の記事掲載)に行ってチュウブのチョコレートをよく食べた、大好きなお菓子であった。
工場での食事は玄米やとうもろこしの混じった不味い弁当だった。お菓子など全くなかったのである。

私の驚きは大変なものであった。お百姓さんも大変驚いていた。他言はしないと約束してくれた。あのやさしい特攻隊員の約束を守らなければと思った。

私の寄宿舎は呉駅から呉線の汽車に乗って三っつか四っつめの「天応駅」であったのではと思う、かすんで見えない記憶である。

帰郷の日、支度をして農家に行った。私のリックサックに積めらるだけの梅干おにぎりを入れてくれた。何個あったかは全く記憶にない。お百姓さんが「ご無事でね!といって涙をうっすらうかべて笑顔で言ってくれた言葉だけは記憶に残っている。

新潟駅に行くには大阪駅で乗り換えなければならなっかた。乗り換え時間は3~4時間あった。夕刻に発車するので駅は大変混雑していた。床に胡坐をかいて待った。腹が減ってきた

おにぎりは新聞紙に丁寧にくるまれている。真っ白な”おにぎり”が浮き出てきた。微笑みながら食べようとしたら”私の周りに異様な光景が描かれていた。みな札束を出して「売ってくれ!」私はリックを抱え込んで涙声で叫んだ「だめだ!!」新潟までは数十時間かかるのだから私の大事な食料である。 ようやく汽車に乗り窓際の席に座ることができ「ホット」した。
座席の窓には外が見えないように塞がれていた。国家機密の場所を通過するのだからであろう。日本海の絶景を展開する沿線でもあるが戦時中のことである。すべて秘密であるのだと思った。

私の記憶に残るのはこれだけである。

呉海軍工廠に行くときのこと。そして帰郷して家に戻ってきたときの記憶はすべて消滅しまっている。母は送り向かいに駅にきていたと推測するのだがもう83歳で逝ってしまったので聞けない。私は今82歳 もっと早く確かめておけば良かったと後悔してしまうが
私が終末の歳を迎えたればこそ こうして少年の頃を強く思い出しあぐねているのかも知れない。

現在の呉港 共有画像から掲載

Photo 戦中戦後を生きた少年の記憶その三 へつづく・・・執筆中

2012/12/19

戦中戦後を生きた少年の記憶その二

3,呉海軍工廠へ動員命令

級友たちが機雷に触れ空中高く舞い上げられて散ってしまったあまりにも悲惨な衝撃が何時までも脳内に残りほかの記憶は断片的にしか残っていないのである。

脳内の映像は呉海軍工廠の工場で特殊潜航艇の魚雷発射口の旋盤を操作していたこと。そこに特攻隊員が来て赤い顔し酒匂を放ちながら柔和に私の肩に手をしっかりあてて
言った。

「俺はこれに乗る。頼むぞ!」

この特殊潜航艇は真珠湾を攻撃した型と同じだと言うこと。Tokuetazima06

現在 海上自衛隊幹部候補生・第一術科学校(旧海軍兵学校)に真珠湾攻撃した特殊潜航艇が復元され置かれている 。

私はこの画像の先端部分の魚雷発射口を永いこと見つめていた。特攻隊員の柔和な笑顔が浮かびでていた。
82歳になった、皴顔の目から涙があふれていた。

Photo_2

工場内には人間魚雷も製作されていた。完成した人間魚雷に休憩時間に乗ってみた。Ninngengyorai_2 ハッチは上から閉める構造である。乗員が乗ったら最後ハッチは内部からは開けられないのだ。この人間魚雷は靖国神社悠就館に展示してある。

和歌山県の熊野に、那智山青岸渡寺がある。補陀落渡船とは、生きながらにして、海へ出て、補陀落浄土に向かうと言うことである。この渡船は上から蓋をし釘打ちするので中に入った人は出られない。海流にのって補陀落浄土の旅に出て死ぬ。

私はこの魚雷に乗る特攻隊員は神仏ではないかとおもった。

あわてて開いているハッチから出て特殊潜航艇魚雷発射管の作業現場に戻った。

呉海軍工廠動員解除から帰郷までの記憶へ

2012/12/16

戦中戦後を生きた少年の記憶その一

雪国 越後で生まれ海がしけると、きまって地の底から突き上げる浪打の音がドドゥ~ドドゥと聞こえてくる町並みに0歳~18歳までの人間形成の重要な時期を自然のゆりかごの中ですごした。裏日本特有の鉛色のどんよりした日々が多いのだ、雪国の四季には雪の生殖細胞を含んでいるのではないかと思うように鉛色の雲に覆われる日がおおいのであるが、そのことが対比して晴れた日には樹木も家々も人々にも美しく光、輝きをあたえるのである。

10歳位から身体に体内の生殖細胞が竜巻のごとく急激に芽生え強烈にアタックしてくるのである。この現象は男も女も同じであるのだが、皆黙して語らず。しかし、行動は隠すことなく現れてくる。

1,戦争ごっこPhoto

昭和12年から日本は戦時中になっていた。幼年のころはチャンバラごっこであったのが戦 争ごっこ になっていた。私は町内の子供達を仕切っていた。日曜日には私は母から飯盒を作ってもらい毎日出征したつもりで家を出ていた。飯盒は昼食である。ガキ大将であった私はいつも戦争ごっこでは大将の位である。兵隊は六人と看護婦はたしか3~4人ではなかったかとおもう。家の裏が松林の砂山でここが戦場であった。

薄らいだ記憶を確認するには少年の頃の親友、悌二君しかいない。その悌二君は昨年財布の中に私の名前と電話番号を書いてある紙切れを札入れに残して逝ってしまった。この記憶を確認すべき手立てがなくなった。

うっすらと浮かぶ不確かな記憶でキーボードを叩く。

敵は松の幹に括り付けた藁の束を敵に見立てた。兵隊の武器は竹槍だ、大将の私はチャンバラに使ったニセアカシヤの枝の剣が軍刀と呼び名がかわった。

チャンバラごっごでは着物であったが尋常小学校5年生になっていた私は制服の襟に大将の肩章をボール紙で作って張れば身も心も大将になった気分となる。

戦いが始まった!部下に攻撃命令を下すと大将は先頭に立って敵に突進して袈裟斬りにする。
そのとき敵はピストルを発射し、わが腕を貫通する!!と推察するのであった。その結果如何に!

そう・・倒れるのである。看護婦がかけつける・・葉っぱをカーゼにみたて治療するのであった。看護婦の匂いは格別な匂いだと思っていた。

逝ってしまった悌二君は私によく言っては笑った。「大将は突撃命令をくだしておいてすぐ倒れて看護婦を呼び おかしいと笑った」いい年になった頃この言葉を悌二君はいつも言っていた。

悌二君はうらやましかったのでなかったのではと思う?高校の生物の時間にフェロモンを習った。ああ・・そうか看護婦が放っていたフェロモンが少年の鼻に強く感じていたのであったことを・・だから大将は突撃して真っ先に怪我をしたいと思ったのだ。そのフェロモンに惹かれて倒れていたのである。天上にいった悌二君に教えてあげたいと空を仰ぐのである。

日本海から吹いてくる五月の風が松葉の香りを溶かし負傷した大将の頬をかすめていた。

なつかしい わすれえぬ 戦争ごっこの頃である。

2,県立工業学校(旧制)の強烈な思い出

尋常小学校の隣に県立工業学校(旧制)があった。小学校を卒業したらこの学校に入学しようと六年生になったころから思っていた。裕福でない家庭であったからである。また日本はますます戦争を拡大していたのも影響した。親はなにも言わず無言だったことを良く覚えている。私が11歳のとき1941年12月8日アジア・大平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ等の連合国軍と戦争が始まった。

幼児のころの四季のあやなす、いろどりと絡みあい遊ぶメルヘンの世界は粉々に飛び去り
常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む阿修羅の心になったしまった。

一年生の私は軍事一色の工業学校に入学して恐怖を感じていた。物理の教師は退役海軍将校でいつも軍服とサーベルをさげていた。漢文の教師は節々が太い1mの竹棒を常に磨き込み濃い不気味な濃茶色の光を発していた。出来ない生徒に天誅と称して頭を叩くのである。節が頭の皮膚にあたり痛さがます。血が滲むこともあった。
数学の教師は細身で神経質である。問題を出し回答を黒板に書かせるのである。細い竹棒を持っていて出来ないとき、やはりピシッとたたかれた。
遠足は鉄砲を担いでの行軍である。

1945年、三年生になったころの電気科は40名近くいたと記憶している。私は背が高い方であったので後列から二番目の席であった。私の後ろの再後列の生徒は体格も良く柔道二段の強者であった。
私とはなにか気があった。そして校内での行動はいつも彼が私を庇ってくれていた。

日本は敗戦の一途をたどっていた。ご飯も食べられない位の食糧不足となっていた。母は着物を持って遠い農家まで行って食料の買い出しでかける。貨幣価値はなく物々交換でないと農家は作物を売ってくれないのである。

配給の食糧だけでは餓死してしまう拙悪な食料不足となっていた。

闇米を購入した者は罰せられる法がでた。法を守る裁判官が闇米を食べなかったために餓死したとゆうニュースを覚えている。

母は悲しそうに帰ってきた芋の蔓を持ってである。米は売ってくれないという。さつまいも、もダメだという 蔓しかないのである。
生育盛りの子供に栄養が与えられず母は悲しんでいた。
家の前の道路側に畑を耕し始めた。町内一斉にはじめた。肥やしは人糞である。

家から鉄瓶等金物はすべて供出命令がでた。お寺から梵鐘が無くなっていった。
日本は一億総玉砕の覚悟をと軍事政府首相から聞かれるようになってきた。

日本の青年はどんどん徴兵されていた。遂に新潟鉄工所へ学徒動員の命が下された。鉄工所の工員も戦場に徴兵されてしまい兵器を作る匠はいなくなったのである。それで少年がかり出されたのである。

そのころアメリカの新鋭の爆撃機B-29が日本の工場の爆撃と港・河川に機雷が投下され始めた。

新潟鉄工場は信濃川を挟んで西側工場と東側工場にわかれていた。工場間の連絡用にジーゼル船に引かれた艀が定期的に運行されていた。

通学路は家をでて西に行く 尋常小学校から通い慣れた徒歩15分の道程であったのだが学徒動員令が出されてから東に行く道路をうつむき加減に工場に向かって道程60分歩く
工場の守衛に通行証を示して工場に行き工作品の運搬など級友達と黙々と働いた。空襲警報が鳴るたびに防空壕に避難する。晴天の日などB-29爆撃機のエンジン音とキラキラ光る機体が得体の知れない恐怖感に襲われたのだった。

1945年7月2日午後5時仕事終了し東側から通勤している友達がいつになく楽しそうにして帰り支度を急いで帰りの艀に走って行った。今日は蒲原祭りがあるからと叫んでいた。私は西側なので通行証を示して門を出た時であった。

ものすごい耳をつんざく、空気の振動と爆発音を聞いて振り返ると空中高く水柱が立っていた。機雷に触れた!!

急いで艀乗り場に走った。級友7人が一瞬に犠牲になった。助かった級友も重傷を負ったのだった。この地獄絵を終生忘れられない!言葉を失った。全身震えが止まらない。

機雷は少年達の命を奪ってしまった。

3,呉海軍工廠へ動員命令

つづく

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