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2012/12/16

戦中戦後を生きた少年の記憶その一

雪国 越後で生まれ海がしけると、きまって地の底から突き上げる浪打の音がドドゥ~ドドゥと聞こえてくる町並みに0歳~18歳までの人間形成の重要な時期を自然のゆりかごの中ですごした。裏日本特有の鉛色のどんよりした日々が多いのだ、雪国の四季には雪の生殖細胞を含んでいるのではないかと思うように鉛色の雲に覆われる日がおおいのであるが、そのことが対比して晴れた日には樹木も家々も人々にも美しく光、輝きをあたえるのである。

10歳位から身体に体内の生殖細胞が竜巻のごとく急激に芽生え強烈にアタックしてくるのである。この現象は男も女も同じであるのだが、皆黙して語らず。しかし、行動は隠すことなく現れてくる。

1,戦争ごっこPhoto

昭和12年から日本は戦時中になっていた。幼年のころはチャンバラごっこであったのが戦 争ごっこ になっていた。私は町内の子供達を仕切っていた。日曜日には私は母から飯盒を作ってもらい毎日出征したつもりで家を出ていた。飯盒は昼食である。ガキ大将であった私はいつも戦争ごっこでは大将の位である。兵隊は六人と看護婦はたしか3~4人ではなかったかとおもう。家の裏が松林の砂山でここが戦場であった。

薄らいだ記憶を確認するには少年の頃の親友、悌二君しかいない。その悌二君は昨年財布の中に私の名前と電話番号を書いてある紙切れを札入れに残して逝ってしまった。この記憶を確認すべき手立てがなくなった。

うっすらと浮かぶ不確かな記憶でキーボードを叩く。

敵は松の幹に括り付けた藁の束を敵に見立てた。兵隊の武器は竹槍だ、大将の私はチャンバラに使ったニセアカシヤの枝の剣が軍刀と呼び名がかわった。

チャンバラごっごでは着物であったが尋常小学校5年生になっていた私は制服の襟に大将の肩章をボール紙で作って張れば身も心も大将になった気分となる。

戦いが始まった!部下に攻撃命令を下すと大将は先頭に立って敵に突進して袈裟斬りにする。
そのとき敵はピストルを発射し、わが腕を貫通する!!と推察するのであった。その結果如何に!

そう・・倒れるのである。看護婦がかけつける・・葉っぱをカーゼにみたて治療するのであった。看護婦の匂いは格別な匂いだと思っていた。

逝ってしまった悌二君は私によく言っては笑った。「大将は突撃命令をくだしておいてすぐ倒れて看護婦を呼び おかしいと笑った」いい年になった頃この言葉を悌二君はいつも言っていた。

悌二君はうらやましかったのでなかったのではと思う?高校の生物の時間にフェロモンを習った。ああ・・そうか看護婦が放っていたフェロモンが少年の鼻に強く感じていたのであったことを・・だから大将は突撃して真っ先に怪我をしたいと思ったのだ。そのフェロモンに惹かれて倒れていたのである。天上にいった悌二君に教えてあげたいと空を仰ぐのである。

日本海から吹いてくる五月の風が松葉の香りを溶かし負傷した大将の頬をかすめていた。

なつかしい わすれえぬ 戦争ごっこの頃である。

2,県立工業学校(旧制)の強烈な思い出

尋常小学校の隣に県立工業学校(旧制)があった。小学校を卒業したらこの学校に入学しようと六年生になったころから思っていた。裕福でない家庭であったからである。また日本はますます戦争を拡大していたのも影響した。親はなにも言わず無言だったことを良く覚えている。私が11歳のとき1941年12月8日アジア・大平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ等の連合国軍と戦争が始まった。

幼児のころの四季のあやなす、いろどりと絡みあい遊ぶメルヘンの世界は粉々に飛び去り
常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む阿修羅の心になったしまった。

一年生の私は軍事一色の工業学校に入学して恐怖を感じていた。物理の教師は退役海軍将校でいつも軍服とサーベルをさげていた。漢文の教師は節々が太い1mの竹棒を常に磨き込み濃い不気味な濃茶色の光を発していた。出来ない生徒に天誅と称して頭を叩くのである。節が頭の皮膚にあたり痛さがます。血が滲むこともあった。
数学の教師は細身で神経質である。問題を出し回答を黒板に書かせるのである。細い竹棒を持っていて出来ないとき、やはりピシッとたたかれた。
遠足は鉄砲を担いでの行軍である。

1945年、三年生になったころの電気科は40名近くいたと記憶している。私は背が高い方であったので後列から二番目の席であった。私の後ろの再後列の生徒は体格も良く柔道二段の強者であった。
私とはなにか気があった。そして校内での行動はいつも彼が私を庇ってくれていた。

日本は敗戦の一途をたどっていた。ご飯も食べられない位の食糧不足となっていた。母は着物を持って遠い農家まで行って食料の買い出しでかける。貨幣価値はなく物々交換でないと農家は作物を売ってくれないのである。

配給の食糧だけでは餓死してしまう拙悪な食料不足となっていた。

闇米を購入した者は罰せられる法がでた。法を守る裁判官が闇米を食べなかったために餓死したとゆうニュースを覚えている。

母は悲しそうに帰ってきた芋の蔓を持ってである。米は売ってくれないという。さつまいも、もダメだという 蔓しかないのである。
生育盛りの子供に栄養が与えられず母は悲しんでいた。
家の前の道路側に畑を耕し始めた。町内一斉にはじめた。肥やしは人糞である。

家から鉄瓶等金物はすべて供出命令がでた。お寺から梵鐘が無くなっていった。
日本は一億総玉砕の覚悟をと軍事政府首相から聞かれるようになってきた。

日本の青年はどんどん徴兵されていた。遂に新潟鉄工所へ学徒動員の命が下された。鉄工所の工員も戦場に徴兵されてしまい兵器を作る匠はいなくなったのである。それで少年がかり出されたのである。

そのころアメリカの新鋭の爆撃機B-29が日本の工場の爆撃と港・河川に機雷が投下され始めた。

新潟鉄工場は信濃川を挟んで西側工場と東側工場にわかれていた。工場間の連絡用にジーゼル船に引かれた艀が定期的に運行されていた。

通学路は家をでて西に行く 尋常小学校から通い慣れた徒歩15分の道程であったのだが学徒動員令が出されてから東に行く道路をうつむき加減に工場に向かって道程60分歩く
工場の守衛に通行証を示して工場に行き工作品の運搬など級友達と黙々と働いた。空襲警報が鳴るたびに防空壕に避難する。晴天の日などB-29爆撃機のエンジン音とキラキラ光る機体が得体の知れない恐怖感に襲われたのだった。

1945年7月2日午後5時仕事終了し東側から通勤している友達がいつになく楽しそうにして帰り支度を急いで帰りの艀に走って行った。今日は蒲原祭りがあるからと叫んでいた。私は西側なので通行証を示して門を出た時であった。

ものすごい耳をつんざく、空気の振動と爆発音を聞いて振り返ると空中高く水柱が立っていた。機雷に触れた!!

急いで艀乗り場に走った。級友7人が一瞬に犠牲になった。助かった級友も重傷を負ったのだった。この地獄絵を終生忘れられない!言葉を失った。全身震えが止まらない。

機雷は少年達の命を奪ってしまった。

3,呉海軍工廠へ動員命令

つづく

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コメント

大将ですか!ウラヤマシイ。わたしの世代は戦争ごっこはなかったように思いますが、あってもおそらく伝令ぐらいだったような気がします。

schmidt さん コメントありがとうございました。

そうですね~戦争を知ってる年代は少なくなりました。あのころは戦争一色でした。

家庭から鉄瓶を含めて金属類の供出を命ぜられた!軍国主義一色でしたから。
続編をよろしく読んでください。

チャンバラごっこは、日本人のDNAかとも思っていたのですが、
残念ながら、ここ50年で断絶してしまったかのようです。

watari41さん コメントありがとうございました。

いまの少年達は陰惨な「虐め」が遊びを忘れた「犯罪」となって成長時期に覆い被さってきました。

「ただいまと家に帰ってきたとき」 母はおらず 一人で夕食を終え 疲れた母が帰り、父がさらに遅く
酒臭を漂わせ帰ってくる。 365日この繰り返し 休日にはマイカーで渋滞道路に時間を費やし そしてつかれて もの言う力もなく家に帰りそして寝る そこには人と自然との対話もなく過す。

つかれた日本がここにあるのですね。

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