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2012/12/21

呉海軍工廠動員解除から帰郷までの記憶

呉港には戦艦大和ほか大小のさまざの艦船が数多く浮かんでいた。岸壁に繋留しているのは掃海艇が多かったと・・ぼんやりだが脳内映像に残っている。

毎日、何回かアメリカの艦載機が襲来して機銃掃射を受けていたことをはっきりと記憶にある。私は防空壕に逃げ込んで体を丸く縮めて震えていた、防空壕の入り口からみえる工場の道路に艦載機から放つ弾が豪雨のように弾丸ヒューヒューと恐ろしい音を発しながら降ってきてコンクリート道路を突き破りコンクリートの粉を吹き上げていた。と同時に私の体に異変が起きていた。それはオチンチンが異常に膨張していたのである。「後に知ったことだが男性が瀬戸際の危険状態になると”種保存本能”が働くからだと」

日本の戦闘機の応戦は全くなかった。日本は負けるのだと深く思っていたがその言葉を発したら憲兵に捕まる。

空襲解除後に職場に戻る光景は地獄絵であった。対空機銃砲を握ったまま複数の兵士が血を噴き出し戦死していた。機雷に触れて死んでいった級友達のことがよみがえった。

ある日はっきりした記憶にはないが1945年6月のある日だったとおもう、動員生徒は帰郷せよ!の命令があった。理由は「アメリカの新型爆弾が投下される」・・・?

旋盤の作業が最後の日に、あの「特攻隊員が荷物をぶら下げて」私の防空頭巾の綿を取り出し綿のように柔らかい「ほまれ」と呼ばれる刻みタバコを入れ始めた 私はPhoto_2驚いてみていた。そしてチョコレート・羊羹などを入れ始めた。また驚いた。

終わってから言った。                                       煙草ほまれ・写真はふくしま戦争資料館HPより

「今日でさよならだ!門をでるとき衛兵がいつもの持物検査をするだろうが平気な顔をしていなよ。 防空頭巾は「ほまれ」でやわらくなっているから心配するな」 寄宿舎のある近くの農家に行ってこうゆうのだ」

「帰郷することになった。帰郷の日に白米のおにぎりをリックにつめてくれといって防空頭巾の羊羹・チョコレート タバコを全部をだまってわたしなさい」お百姓は大変驚くと思うが喜んで”おにぎり”を作ってくれるだろうから」「理由はゆうなよ」 防空頭巾に綿をつめたら寄宿舎に帰れ!
わたくしは 深く頭をたれ、お礼を言った。涙はでなっかた。そして特攻隊員の背筋をピンとのばして去っていった後ろ姿を視界から消え去るまで見つめていた。魚雷発射管の旋盤をかけた面が銀色に輝き天井の電灯の光を反射して美しかった。私の工作した光 よさようならと呟いた。

幼い頃 角屋(幼き日の思い出の記事掲載)に行ってチュウブのチョコレートをよく食べた、大好きなお菓子であった。
工場での食事は玄米やとうもろこしの混じった不味い弁当だった。お菓子など全くなかったのである。

私の驚きは大変なものであった。お百姓さんも大変驚いていた。他言はしないと約束してくれた。あのやさしい特攻隊員の約束を守らなければと思った。

私の寄宿舎は呉駅から呉線の汽車に乗って三っつか四っつめの「天応駅」であったのではと思う、かすんで見えない記憶である。

帰郷の日、支度をして農家に行った。私のリックサックに積めらるだけの梅干おにぎりを入れてくれた。何個あったかは全く記憶にない。お百姓さんが「ご無事でね!といって涙をうっすらうかべて笑顔で言ってくれた言葉だけは記憶に残っている。

新潟駅に行くには大阪駅で乗り換えなければならなっかた。乗り換え時間は3~4時間あった。夕刻に発車するので駅は大変混雑していた。床に胡坐をかいて待った。腹が減ってきた

おにぎりは新聞紙に丁寧にくるまれている。真っ白な”おにぎり”が浮き出てきた。微笑みながら食べようとしたら”私の周りに異様な光景が描かれていた。みな札束を出して「売ってくれ!」私はリックを抱え込んで涙声で叫んだ「だめだ!!」新潟までは数十時間かかるのだから私の大事な食料である。 ようやく汽車に乗り窓際の席に座ることができ「ホット」した。
座席の窓には外が見えないように塞がれていた。国家機密の場所を通過するのだからであろう。日本海の絶景を展開する沿線でもあるが戦時中のことである。すべて秘密であるのだと思った。

私の記憶に残るのはこれだけである。

呉海軍工廠に行くときのこと。そして帰郷して家に戻ってきたときの記憶はすべて消滅しまっている。母は送り向かいに駅にきていたと推測するのだがもう83歳で逝ってしまったので聞けない。私は今82歳 もっと早く確かめておけば良かったと後悔してしまうが
私が終末の歳を迎えたればこそ こうして少年の頃を強く思い出しあぐねているのかも知れない。

現在の呉港 共有画像から掲載

Photo 戦中戦後を生きた少年の記憶その三 へつづく・・・執筆中

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コメント

私の同級友人にも、逃げ込んだ防空壕入口で、機銃掃射の弾丸が耳元をわずかに離れたところに突き刺さった記憶を持つ男がおります。さすがに子供なのでオチンチンのことまでは無かったようです。終戦間際の仙台近郊の田舎にも爆撃機や戦闘機が来ていたのです。

戦後の買い出しでは、母は着物などを出していたように記憶してます。

呉の製鋼所には、これまた戦後ずっと後のことですが、同級生が勤務しており、いろいろと話を聞いたことがありました。

watari41さんコメントありがとうございました。

やはり母上様は着物で物々交換しておられたのですね。お札は紙切れのような価値のないものになっていましたから
戦争は残虐で悲惨なものです。相撲にたとえれば日本軍=少年横綱がアメリカ連合軍=大相撲の横綱
に立ち向かうようなものでした。

オチンチンの経験は凄かったですね 脳から急激にホルモンが自動放出されたのですね

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