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2014年6月

2014/06/26

20年以上の前の話

私の現役のころの職場の経理業務の機械化はコンピュータメーカが独占する。所謂

オフイスコンピュータが支配していた。社長はバランスシートを見るときには経理担当からオフィスコンピュータを操作してもらってデータを出すしかなった。

会長から私に命が下った。会長・社長はもちろんのこと社員すべてがパソコンネットワークでパソコン使えるよう設備しろ!米国では当たり前だ。就いてこれない者は辞めて戴く。

人事権を私は与えられた。責任はすべて会長が持つ。やれ!!!また ソフトは市販品・

とすること、ネットワークの下請け会社は大手は使うな!厳しい指示だ!

ソフトは市販品を3ヶ月にわたって東京八重洲ブックセンターに通った。そこであきらめかけた時、神からの言葉を聞いた・・私は経理本の棚の前の立っていた。私は【図でみるバランスシート】加藤邦宏著 夕方を過ぎていたがそこから電話でアポイントを秘書に取ったが急な話はお断りと言われたが「一言伝えてくれたのむ」しばらくして秘書からお会すると!私は飛び上がったそして日頃から準備していた九州の大根料理店の女将に急を依頼した。

いよいよですね!と女将は快諾してくれた。加藤邦宏先生は経学営学・アランの研究者・作曲家・多才にかけている 日本の偉人で検索すればでてくる有名人だった。

私は一方ネット構築の協力会社を探した。慶応経済学部卒業した若き経営者と会えた

私は会社を辞めて20年後さる6月21日」Facebookで数日前出会えた。彼の記事を読んだ。

'92年秋、私は赤坂のとある有名な料亭に招かれ、ふぐ懐石の御相伴に預かっていました。ご招待下さったのは、東北の大手企業の常務。
実は、この会社の新しいネットワークシステムの構築を、常務が役員会の反対を押し切り、社員数が10名にも満たない産まれたての私の会社にご依頼いただいた瞬間でした。
その時の彼の言葉は、その後の私の経営者&営業としての生き方を変えて下さいました。


「自分は、金を出して業者にやらせるのだから、接待されて当たり前とは決して思わない。むしろ、仲間として、全力で業務を遂行してもらいたいから、お客様以上に業者の方を接待し、本当の味方になってもらうことこそ重要だと考えている。」
以来、こちらの会社様とは、私が引退した後も、未だに懇意にさせていただいているようです。
そして、今日、その大変お世話になった元常務と、当時直接ご担当いただいた皆様が久しぶりに仙台で飲まれているとのことで、わざわざ私にお電話下さいました。
感激ひとしおです。
お陰様で、今宵のお酒がとても美味しいです。(^-^)

次回につづく

2014/06/23

震災三年後の南三陸町を訪ねて

<p><p><p><p><p><p><p><p>震災三年後の南三陸町を訪ねて 仙台・羅須地人協会々員 大平達郎 はじめに夢のなかで叫び声を聞いた。「早く逃げてください」</p></p></p></p></p></p></p></p> はじめに
夢のなかで連呼する叫び声を聞いた。「早く逃げてください!!」
3.11 から3 年を迎える2 日前の平成26 年3 月9 日、私はバス・電車と乗り継ぎ鉄骨だけに
なった南三陸町防災対策庁舎前に正座し合掌した。
巨大地震発生時の新聞・TV 放送の記憶が甦り自分の思いを重ねて記す。

1. 南三陸町防災対策庁舎の悲劇
すさまじい地震と津波の襲来に幾多の生命が呑み込まれ、Photo
割れ、 傾き、 ながされ泥流に押しつぶされたガレキの大地。
歴史と文明の背骨を砕かれ壊滅的な被害を受けた。特に南三陸の商店街や民家の建物・山林が大津波により流された被害は大きい。南三陸町の死者数は619 人、行方不明者は216 人(南三陸町ホームページ2014 年6 月19 日による)。

そして町役場が跡形もなく壊滅し多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となった。その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた危機管理課防災無線 放送担当「遠藤未希さん」は最後まで声を振り絞って「早く逃げてください」「早く逃げてください」・・・・・6メートル強の津波がきます!と連呼した。
 地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。
 地震直後、芳賀タエ子さんは
「6メートル強の波があります。早く逃げてください!!」という未希さんのPhoto_2


放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。
 芳賀さんは避難をしていた未希さんの母親 遠藤美恵子さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」と感涙!
 高台から見下ろす街は濁流にのみ込まれていた。
 三階建て庁舎は 1995年の阪神大震災を機に建設された。
「高台に立てた方がいい」という議論もあったが
”役場への近さが優先”された。
 地震直後に入った津波の予想は、高さ六メートル。防潮水門は
5.5メートルほどある。「6メートルなら大丈夫。万が一、波が水門を越えても、屋上に逃げればいい」防災をになう職員の共通認識だった。
 午後3時20分過ぎ。「津波が来たぞ」と声が上がる。町長が屋上に上がると、防潮堤を乗り越えて波が入り、海岸近くの家が破壊されていくのが見えた。「こんなはずはない」と思ったとき、逃げ道はなくなっていた・・・ 津波は第1波で庁舎をのみ込み、全ての壁と天井を打ち抜いた。
 第2波、第3波は鉄骨の上で無線アンテナなどにしがみついて耐えた人は助かった。「屋上には30人ほどいたが、気が付けば8人しか残っていなかった」という。
 
何故この悲劇が!
私の尊敬する作家は吉村 昭 氏である。理由は吉村 昭 氏は徹底的に文献を調査して納得いかねば「一人旅」で調査をされるのである。
文芸春秋刊「ひとり旅」(2007年7月31日 第一刷発行)が最後の随筆集となった。
後世に津波の恐ろしさを記して警告を発している内容なのである。
 
次の記事を読めば防災対策庁舎は高台に建設していただろうと思う
以下 大津波に関係する記事を抜粋 
◇      ◇     ◇    ◇     ◇
【高さ五〇メートル 三陸大津波】  「27頁」
私が定宿にしている本家旅館の女主人からは、津波の襲来前、海水が急激に沖にひいて海底が広々と露出したこともきいた。おそらく海草がひろがっていると彼女は思ったが、海底は茶色い岩だらけであったという回想に、生々しさを感じた。
私の胸に動くものがあり、この津波災害史を書いた人は誰もいないことから、徹底的に調査してかいてみようとおもい立った。・・・・
29頁の8行目・・
私は、この調査の旅で明治29年の津波の体験者2名に会って回想をきくことができた。その一人は講演会場のホテルのある羅賀に住んでいた八十五歳の中村丹蔵氏であった。私は、村長の案内で山道を登って氏の家をにおもむいた。眼下に海がひろがっている。
私は、ノートに氏の証言をメモしつづけたが、津波が来襲した時、轟音とともに海水が入口の戸を破って畳の上に流れ込んで来たという。
その言葉に村長は驚きの声をあげ、小庭に出ると海を見下ろし、
〈驚きましたなあ。海面から五十メートルはある〉
と呆気にとられて言った。・・・・・・」
◇      ◇     ◇    ◇     ◇
この村長が防災対策庁舎を建設したとしたら当然高台に作っただろう!
文芸春秋刊「ひとり旅」を読んでいない方は是非読んで欲しいと思う。特に官公庁の方々には防災の教科書として反芻して読んで欲しいと思う。
 
人はなぜ歴史の教えを学び実行しないのだろう?
人間は性懲りのない生き物なのか、歴史という気の遠くなるような時間を費やしてきたにもかかわらず「いのち」とは、なにかの質問に答えられない。永遠に!悲しい!
 
2 復興
官公庁の対策は復興予算を組んだもののまだ依然とし災害?の復興は進んでいない現状を現地に行って強く感じた。
一方全国から救援に駆けつけてくれた善意に満ちた人々の偉大な力に感動したのである。その
なかでも近畿地区生コン関連団体から建設資金を寄付地元・Photo_5


南三陸町の杉材を使用し共同食堂を昨年
12月に完成! 宮城県南三陸町の森林を活用して共同食堂「松野や」の建設が始まったのは昨年の11月。南三陸町では全国生協のパルシステムが支援し、被災者の住宅再建を地元の木材を活用してすすめようという試みが始まって、その第一号が、近畿の生コン業界で応援してきた共同食堂「松野や」である。私は防災対策庁舎の冥福を祈ってからこの松野や食堂に向かった。道々には亡くなられた方の墓標に花束 お線香の香が延々と流れていた。その災害の大きさを語っているように思えた。冥福を祈りながの道のりであった。Photo_4
12時30分松野や食堂に着いた。
店の空気は磯の香りで満ちていた。名物海鮮うどんが


運ばれてきた。やっと我に返った。合掌して箸をとりすすった。
素晴らしく旨い唾液がドットでてくる。
私のテーブルに来た背が高くて、肩も胸もがっしりしている
イケメンの若者二人が合い席を私に問うた。
「ボランテアですか」・「いいえ海水放射能調査と海生々物調査です」私はなにか心が高揚してきた。「どうですか結果は」
・「放射能はないです」
よかったと思う。
さらに「海は50年前に戻ったと言われています」海生々物Photo_6


・海藻類の生育が早いのです。更に多く育っています。海底の泥が陸に流されてきれいになっためだと思うと!!
私は上気し鼓動が打つのを感じた。
3 自然の大循環の崩壊
「50年前の海に戻ったようです!」
この言葉は何を意味するのか!そう!地球も生きているのだ!人はこの世に生を受けた瞬感から死にむけてのカウントダウンが始まる。地球も誕生の瞬感から地球崩壊に向けてカウントダウンが始る。2600万年に一度地球上の生物は絶滅に瀕したという。
人間の気がつかない場所で動かないと思っていた穏やかな現実が実は刻々と破壊され 変化し鋭いナイフで切り取ったような断層がマントルの地底へずりずりと崩れ去り飲む込まれて行く その歪みを解消する時がくる。膨大な歪み解消のエネルギーがM8以上の巨大地震を惹起する。
大津波は海底を大掃除をし陸上の人間の作ったあらゆるものが破壊した。3.11の巨大地震・津波は「神の領域の核に手を染めて安全対策を怠った原発は爆発し大気に、海洋に、放射性物質をまき散らした。核は人間のDNAを破壊する。核のゴミも処分できないでいる。このことは文明の崩壊を意味する。 2600万年に一度地球上の生物は絶滅に瀕したという自然のサイクルを待つしかないのだろうか。人間は天に向かって唾を吐いてしまった。人間消滅を覚悟せねばなるまい。
 
おわりに
平穏な穏やかな海洋を眺めながら帰途についた。 Photo_7
近江正人詩集の「黒い矢じり」を私一人しか乗っていないバスの中で声に出していた。
 
 
黒い矢じり   土曜美術社出版販売 近江正人詩集 49頁
博物館の陳列ケースの隅で一本の矢じりを見た
四千年も前 縄文人の骨盤に突き刺さったまま出土したという
説明書きによれば男の骨盤はひどくすり減っていて
矢じりを腰に受けた後もしばらく重労働に耐えて生きたという
今は 手のひらほどもない灰色の骨片に深々と食い込んだまま
ほの暗い照明の下 矢じりは鈍く輝いている
ガラス箱の底から男の小さな悲鳴が聞こえた 
どんな顔の戦士であったか
どの部族との戦闘で射られたものか
背後からふいに飛んできたこの矢は
男の逃げ去る背中を嘲ったものだったか妻も子も、年寄りもいたろう
いずれにせよ 
この男は足を引きずりながら
しばらく生きて 部族の長に再び使え 
長の墓の土偶も焼き顔をしかめながら 
獣を追い 魚を捕り 女を抱いた 
ずくずくと化膿し痛みを増す腰の不運に
どれほどの夜 男はうめき
戦いを呪い続けただろうか 
あれから四千年 我々の歴史はそのまま戦の歴史であった 
矢じりが鉄砲の弾となり 砲弾となり ミサイルとなり 
原爆となっても戦いの象徴であることに変わりはない 
悲観的生物学者によると
人間細胞のDNAは縄張り意識の遺伝子を抱え込んでいるという
家を 部族を 国家を己がなわばりとして
戦をしたがる闘争本能はでに細胞深く組み込まれた 
我々の恐るべき自爆装置だというのだ 
人類の生誕の時より あの男の受けた黒い矢じりは
神の与えた原罪のように 我々の細胞深く突き刺さったまま 
四千年後の今も まだとれていない
 
この詩は原爆=原発爆発 と人間の飽くなき欲望と縄張り意識
が昂じて自爆に繋がって行くように感じた。
3.11の巨大地震・津波は神の警告ではないかと思う、
犠牲者に深い祈りを捧げ 帰途についた。
おわり

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