2014/06/23

震災三年後の南三陸町を訪ねて

<p><p><p><p><p><p><p><p>震災三年後の南三陸町を訪ねて 仙台・羅須地人協会々員 大平達郎 はじめに夢のなかで叫び声を聞いた。「早く逃げてください」</p></p></p></p></p></p></p></p> はじめに
夢のなかで連呼する叫び声を聞いた。「早く逃げてください!!」
3.11 から3 年を迎える2 日前の平成26 年3 月9 日、私はバス・電車と乗り継ぎ鉄骨だけに
なった南三陸町防災対策庁舎前に正座し合掌した。
巨大地震発生時の新聞・TV 放送の記憶が甦り自分の思いを重ねて記す。

1. 南三陸町防災対策庁舎の悲劇
すさまじい地震と津波の襲来に幾多の生命が呑み込まれ、Photo
割れ、 傾き、 ながされ泥流に押しつぶされたガレキの大地。
歴史と文明の背骨を砕かれ壊滅的な被害を受けた。特に南三陸の商店街や民家の建物・山林が大津波により流された被害は大きい。南三陸町の死者数は619 人、行方不明者は216 人(南三陸町ホームページ2014 年6 月19 日による)。

そして町役場が跡形もなく壊滅し多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となった。その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた危機管理課防災無線 放送担当「遠藤未希さん」は最後まで声を振り絞って「早く逃げてください」「早く逃げてください」・・・・・6メートル強の津波がきます!と連呼した。
 地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。
 地震直後、芳賀タエ子さんは
「6メートル強の波があります。早く逃げてください!!」という未希さんのPhoto_2


放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。
 芳賀さんは避難をしていた未希さんの母親 遠藤美恵子さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」と感涙!
 高台から見下ろす街は濁流にのみ込まれていた。
 三階建て庁舎は 1995年の阪神大震災を機に建設された。
「高台に立てた方がいい」という議論もあったが
”役場への近さが優先”された。
 地震直後に入った津波の予想は、高さ六メートル。防潮水門は
5.5メートルほどある。「6メートルなら大丈夫。万が一、波が水門を越えても、屋上に逃げればいい」防災をになう職員の共通認識だった。
 午後3時20分過ぎ。「津波が来たぞ」と声が上がる。町長が屋上に上がると、防潮堤を乗り越えて波が入り、海岸近くの家が破壊されていくのが見えた。「こんなはずはない」と思ったとき、逃げ道はなくなっていた・・・ 津波は第1波で庁舎をのみ込み、全ての壁と天井を打ち抜いた。
 第2波、第3波は鉄骨の上で無線アンテナなどにしがみついて耐えた人は助かった。「屋上には30人ほどいたが、気が付けば8人しか残っていなかった」という。
 
何故この悲劇が!
私の尊敬する作家は吉村 昭 氏である。理由は吉村 昭 氏は徹底的に文献を調査して納得いかねば「一人旅」で調査をされるのである。
文芸春秋刊「ひとり旅」(2007年7月31日 第一刷発行)が最後の随筆集となった。
後世に津波の恐ろしさを記して警告を発している内容なのである。
 
次の記事を読めば防災対策庁舎は高台に建設していただろうと思う
以下 大津波に関係する記事を抜粋 
◇      ◇     ◇    ◇     ◇
【高さ五〇メートル 三陸大津波】  「27頁」
私が定宿にしている本家旅館の女主人からは、津波の襲来前、海水が急激に沖にひいて海底が広々と露出したこともきいた。おそらく海草がひろがっていると彼女は思ったが、海底は茶色い岩だらけであったという回想に、生々しさを感じた。
私の胸に動くものがあり、この津波災害史を書いた人は誰もいないことから、徹底的に調査してかいてみようとおもい立った。・・・・
29頁の8行目・・
私は、この調査の旅で明治29年の津波の体験者2名に会って回想をきくことができた。その一人は講演会場のホテルのある羅賀に住んでいた八十五歳の中村丹蔵氏であった。私は、村長の案内で山道を登って氏の家をにおもむいた。眼下に海がひろがっている。
私は、ノートに氏の証言をメモしつづけたが、津波が来襲した時、轟音とともに海水が入口の戸を破って畳の上に流れ込んで来たという。
その言葉に村長は驚きの声をあげ、小庭に出ると海を見下ろし、
〈驚きましたなあ。海面から五十メートルはある〉
と呆気にとられて言った。・・・・・・」
◇      ◇     ◇    ◇     ◇
この村長が防災対策庁舎を建設したとしたら当然高台に作っただろう!
文芸春秋刊「ひとり旅」を読んでいない方は是非読んで欲しいと思う。特に官公庁の方々には防災の教科書として反芻して読んで欲しいと思う。
 
人はなぜ歴史の教えを学び実行しないのだろう?
人間は性懲りのない生き物なのか、歴史という気の遠くなるような時間を費やしてきたにもかかわらず「いのち」とは、なにかの質問に答えられない。永遠に!悲しい!
 
2 復興
官公庁の対策は復興予算を組んだもののまだ依然とし災害?の復興は進んでいない現状を現地に行って強く感じた。
一方全国から救援に駆けつけてくれた善意に満ちた人々の偉大な力に感動したのである。その
なかでも近畿地区生コン関連団体から建設資金を寄付地元・Photo_5


南三陸町の杉材を使用し共同食堂を昨年
12月に完成! 宮城県南三陸町の森林を活用して共同食堂「松野や」の建設が始まったのは昨年の11月。南三陸町では全国生協のパルシステムが支援し、被災者の住宅再建を地元の木材を活用してすすめようという試みが始まって、その第一号が、近畿の生コン業界で応援してきた共同食堂「松野や」である。私は防災対策庁舎の冥福を祈ってからこの松野や食堂に向かった。道々には亡くなられた方の墓標に花束 お線香の香が延々と流れていた。その災害の大きさを語っているように思えた。冥福を祈りながの道のりであった。Photo_4
12時30分松野や食堂に着いた。
店の空気は磯の香りで満ちていた。名物海鮮うどんが


運ばれてきた。やっと我に返った。合掌して箸をとりすすった。
素晴らしく旨い唾液がドットでてくる。
私のテーブルに来た背が高くて、肩も胸もがっしりしている
イケメンの若者二人が合い席を私に問うた。
「ボランテアですか」・「いいえ海水放射能調査と海生々物調査です」私はなにか心が高揚してきた。「どうですか結果は」
・「放射能はないです」
よかったと思う。
さらに「海は50年前に戻ったと言われています」海生々物Photo_6


・海藻類の生育が早いのです。更に多く育っています。海底の泥が陸に流されてきれいになっためだと思うと!!
私は上気し鼓動が打つのを感じた。
3 自然の大循環の崩壊
「50年前の海に戻ったようです!」
この言葉は何を意味するのか!そう!地球も生きているのだ!人はこの世に生を受けた瞬感から死にむけてのカウントダウンが始まる。地球も誕生の瞬感から地球崩壊に向けてカウントダウンが始る。2600万年に一度地球上の生物は絶滅に瀕したという。
人間の気がつかない場所で動かないと思っていた穏やかな現実が実は刻々と破壊され 変化し鋭いナイフで切り取ったような断層がマントルの地底へずりずりと崩れ去り飲む込まれて行く その歪みを解消する時がくる。膨大な歪み解消のエネルギーがM8以上の巨大地震を惹起する。
大津波は海底を大掃除をし陸上の人間の作ったあらゆるものが破壊した。3.11の巨大地震・津波は「神の領域の核に手を染めて安全対策を怠った原発は爆発し大気に、海洋に、放射性物質をまき散らした。核は人間のDNAを破壊する。核のゴミも処分できないでいる。このことは文明の崩壊を意味する。 2600万年に一度地球上の生物は絶滅に瀕したという自然のサイクルを待つしかないのだろうか。人間は天に向かって唾を吐いてしまった。人間消滅を覚悟せねばなるまい。
 
おわりに
平穏な穏やかな海洋を眺めながら帰途についた。 Photo_7
近江正人詩集の「黒い矢じり」を私一人しか乗っていないバスの中で声に出していた。
 
 
黒い矢じり   土曜美術社出版販売 近江正人詩集 49頁
博物館の陳列ケースの隅で一本の矢じりを見た
四千年も前 縄文人の骨盤に突き刺さったまま出土したという
説明書きによれば男の骨盤はひどくすり減っていて
矢じりを腰に受けた後もしばらく重労働に耐えて生きたという
今は 手のひらほどもない灰色の骨片に深々と食い込んだまま
ほの暗い照明の下 矢じりは鈍く輝いている
ガラス箱の底から男の小さな悲鳴が聞こえた 
どんな顔の戦士であったか
どの部族との戦闘で射られたものか
背後からふいに飛んできたこの矢は
男の逃げ去る背中を嘲ったものだったか妻も子も、年寄りもいたろう
いずれにせよ 
この男は足を引きずりながら
しばらく生きて 部族の長に再び使え 
長の墓の土偶も焼き顔をしかめながら 
獣を追い 魚を捕り 女を抱いた 
ずくずくと化膿し痛みを増す腰の不運に
どれほどの夜 男はうめき
戦いを呪い続けただろうか 
あれから四千年 我々の歴史はそのまま戦の歴史であった 
矢じりが鉄砲の弾となり 砲弾となり ミサイルとなり 
原爆となっても戦いの象徴であることに変わりはない 
悲観的生物学者によると
人間細胞のDNAは縄張り意識の遺伝子を抱え込んでいるという
家を 部族を 国家を己がなわばりとして
戦をしたがる闘争本能はでに細胞深く組み込まれた 
我々の恐るべき自爆装置だというのだ 
人類の生誕の時より あの男の受けた黒い矢じりは
神の与えた原罪のように 我々の細胞深く突き刺さったまま 
四千年後の今も まだとれていない
 
この詩は原爆=原発爆発 と人間の飽くなき欲望と縄張り意識
が昂じて自爆に繋がって行くように感じた。
3.11の巨大地震・津波は神の警告ではないかと思う、
犠牲者に深い祈りを捧げ 帰途についた。
おわり

2014/03/11

3.11

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

)

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2013/03/11

3・11から2年 生態系を破壊する放射能 を危惧す

東日本大震災発生して2年になる。

人間の科学は微細である。絶対安全だと豪語していた原発があえなく爆発した。大自然には絶対に人類は勝てないことを証明された。

生命誌研究者 中村桂子先生のお話をNHK TVで視聴した。
38億年前 一つの細胞が生まれ同じ遺伝子暗号を持って3000万種以上もの生き物に分かれ地球上に住む現代の生物になったという

私は昭和5年~現代に生きてきた。その間の人間の飽くなき快適に生きる道具を使ってきた。道具を作りにはエネルギーがいる。作物の肥料も人糞や堆肥から化学肥料になり 工場から廃液をそのまま自然の海洋に流すとゆう愚かな行為をおこなった。その結果 惨憺たる結果となった。3・11以降は核物質を垂れ流し生態系を狂はせ人類は破滅に向かうだろう

核廃液は人間の兄弟姉妹でもある、魚も・動物も植物も鳥類も、すべての仲間が汚染されてしまった。そして

人間はその魚を食する。臓器は傷つけられ 助け合って働いてきた体内の臓器は狂いだし人間は苦しみ死ぬ。

科学で自然を御することはできないのである。

南極の氷が溶け大気流が変わり日本の美しい季節が無くなった。豪雪となり未曾有の積雪量である。 悲しい事故が報道された。

雪解けになれば今度は河川氾濫するだろう。

首相の「美しい日本」という言葉が幻のように聞こえる。

私自身も蛇口をあければ清浄な水を使っている。頭をたれて飲む

小さい頃には井戸水を飲み冬の暖房は炭火の炬燵に家族で囲み団欒しながら暖をとった。夏には夕刻に打ち水をし、窓を開けっ放しで蚊帳の中で寝た。

現代ではできない。防犯灯や警備会社が活用される時代になった。

放射能が「美しい日本に撒き散らされた」 水銀を海洋に流し 今度は核物質が海洋生物を汚染してしまった。 廃棄物の処理技術も無い 大気汚染も進み新たな有害物質が体内に入る。

どこまで私達人類は傲慢なのだろう。

14時46分 犠牲になられた御霊に冥福を祈る。

役立たずの老人の私は死を思う 

2012/09/11

ジャズフェステバルin仙台でA音で涙す

私のこの「ブログ心」を2004年3月に立ち上げていただいた恩人が ジャズフェステバルin仙台榴ヶ岡公園エントラス広場で九日(日曜日)十一時からの初演「SterParadiseOrchestra」にクラリネット奏者として演奏された。私のPC仲間の方と会場で巡り会い一緒に聴くことができた。非常にうれしかった。

東日本大震災から一年半死者は一万五千八百七十人今なお二千八百十四人の方が行方が分からないのである。

「SterParadiseOrchestra」の方から初演時にA音を発しご冥福を祈ります。ご賛同の方は起立し発してください。全員が賛同し10時59分から1分間 A音を発した。

涙がとめどなくでて泣き声になってしまった。ラ~~~~

すばらしい「SterParadiseOrchestra」の演奏であった。恩人のクラリネットの音も私の心根を震わせたのであった。

未曾有の大震災と東電の「人災、福島第一原発のメルトダウン」で、これらの関連死や里山までも汚染され林業や里山農耕までも破壊されつつありこれからさらに進行形にある。希望を失った方々のことを思うと、断腸の思いである。政府・保安院・東電は大罪を犯した。

今日九月十一日十四時四十六分私は広瀬川の川辺でA音を発し黙祷をした。

2012/04/21

過去の住家 津波で消えた

定年後、堆の棲家を求めて海岸部の町を旅行した。15年前(1996年)のことである。
宮城県の海岸線は南北850kmと長い、気候もまた大きな差がある。
北部が三陸型気候、南部が関東型気候。
雪国越後の海岸部で育った私は堆の棲家は温暖な南部の海岸の町を探した。
赤痢菌発見者 志賀潔博士が晩年過ごした棲家が山元町磯浜であると伝え聞いた。

(1996年)4月の初旬に磯浜海水浴場にいってみた。あたたいかい風が頬を撫でてゆく、穏やかな波うちの風景は私の心を虜にしてしまった。防風林の松林が緑の絨毯のよう~
私は有頂天になって踊った。

震災前の美しい南部海岸線の風景 

(動画をYouTubに投稿していただいた「みなさん」使用させていただきます。感謝)

ここに5年間過ごした。体調を崩し仙台市の病院に入院三か月、退院後通院もあることから磯浜の住居を売り仙台市内に住居を移した。

2011年3月11日自宅の私の至福の場所である
パソコン・デスクに向かってブログ更新をしていた。
家内は買い物に出かけていた。14時42分激震に襲われた。ガスの元栓閉、風呂に水を満水にし、あらゆる入れ物に水を確保した。

私は大地震を新潟・秋田・八戸に住んでいるとき経験しているが今回の地震の巨大さに驚異!

山元町の情報が一切なく非常に心配していた。

その後、山元町坂元は巨大津波にのみこまれていたことを知り、ご近所の方々の安否が心配で夢にまで出てくるようになった。
012年4月17日(火)山元町まで電車とバスを乗り継ぎ行くことができた。
磯浜の荒涼たる光景に慄然とした。自然は怒り狂い磯浜のすべてを飲み込んでしまった。
私はたちつくし、しばらく呆然としていた。気が付いてから
犠牲になられた方々のご冥福を、ささげ、そして涙した。

素晴らしい盆栽を頂いた向かいの家は砂地と化かしていた。
ご主人の優しい面影が浮かんでくる。

元の住家はすっかりなくなっていた。シロアリ防止のコンクリート床とタイル張りの玄関床が残っていた。

Isohama2

巨大津波がおさまってからは虫が大発生したという。鳥が居なくなってしまっていたからだという。1年1か月過ぎた今はヒバリの声が無性に声高らかに響いていた。そのなかに潮騒の音が重なり目をつむれば、故郷越後の砂浜を彷彿として湧いていた。
それは
慈母のささやきのよう。

防風林の松林はすっかり流され、防波堤のテトラポットが目の前に積んであった。海岸線が30メートルくらい近くなっている。
伊達政宗公が磯崎山から太平洋の絶景を岩に腰かけて眺望していたという。私は朝な夕なに「磯崎山公園」に行っていた。その謂れの岩に腰を掛け雄大な太平洋を眺めていた。

しかし巨大津波はその山を崩壊していた。
Photo_2

”哲学者梅原猛さんが言われていた。日本の神道の本質は自然の恐ろしさから出発している。自然に捧げ物をすることにより恐ろしい自然を恵みの自然に変えていく、暴君のような恐ろしさを持ち一面慈母のような面がある。”

自然は人類のためにあるのではないと痛感した。

人災事故原発からの空間放射線は
0.1~0.41μシーベルトと役場のHPにのっていた。

”原発を使って人間の生活を豊かにし便利にする文明が裁かれていると哲学者梅原猛さんが言われていた。”

山元町仮庁舎前に放射線量測定車らしき車が止まっていた。

Photo14時頃から雷鳴が鳴り冷たい雨が降ってきた。


帰途は心が沈んだ。

私はまだ生かされている。


申し訳ない気がしてしょうがなかった。

2012/03/04

忘れられぬ記憶

2011年3月11日 午後2時46分から後7日で一年をむかえる。何事もなく平々凡々の生活こそ幸せであることを思い知らされた。 

わたくしは生まれて81年3か月となるが”何事もなく平々凡々の生活こそ幸せであることを思い知らされた。と思ったのは2回目である。一回目は太平洋戦争である。爆撃を受けた都市は瓦礫の山となった。食糧不足で”さつま芋”の蔓を食べて生きそして避難した。町はひっそりと静まりかえり、人影がなくなった。遂に原子爆弾が広島・長崎に投下され放射線は地獄をつくりだした。1945年(昭和20年)8月15日終戦。犠牲者は軍人が230万人、一般住民が80万人死亡した。わたくしは何事もなく平々凡々の生活こそ幸せであることを思い知らされた。復興とは日々を時の流れにそって感謝して生きる状態にすることだと思った。

1945年(昭和20年)に生まれた人は67歳となり戦争をしらない人が多くなった現代である。

平和を謳歌していた現代に襲ってきたのが巨大地震・津波 東日本太平洋岸地域は瓦礫と化し”地獄は地上にあふれた。そのうえに追い打ちをかけてきたのは原発の核爆発 核の”ひばくしゃ”は数知れず。避難者は12万人以上と河北新報HPで報じられていた。地方紙の情報は何よりもPhoto_2市民は頼りにしているのである。何故なら市民と同じ視線で情報が開示されるからである。記者のみなさんは「いのちと
はなにか」を自問しながら涙し取材したことだろうとおもう それでも新聞を作り続けなければならない使命があるのだから、時間が過ぎ去るほどに苦しさが増すのではないだろうか心配している。

まるで戦争である。原発爆弾の核は瓦礫も汚染し復興の大きな足枷となり時がたつにつれこの災害・人災が魂に与える影響は大きい。科学技術の発展進歩するごとに自然破壊が増加し里山から若者が消えてゆき自然との共栄がなくなり過疎化は進んでいる。その里山にも核が襲ってきた。

日本の自殺者は毎年3万人以上、累計で40万人を超えている。一都市が消滅していると同じである。これは異常である。

屋上屋の国難を日本の国民は必ず復興を成功させる。それが古来から受け継がれた日本民族の魂があるからだ。

わたくしは現代が一番の国難の時期であると思っている。

2011/12/27

苦難の2011年が流れ去る

3・11の巨大地震・津波と人災福島原発爆発 多くの犠牲者に冥福をお祈りしてきた九ヶ月二十日も過ぎた。復興の槌音は大きい!人々の絆の大いなることを知った今年。後四日で多難の011年 原発の核拡散さえなければ明るい未来に希望があった。

 

なんとやるせないことだろう この世の人々が過ぎ去り何世代も放射能拡散は続く。

 

放射性廃棄物処理技術もない現代 森林も汚染された日本の原風景があってもそこには核が根付いている。生きるしかないそして達者でポックリ逝きたいものだと冬の夕刻の風景が言っていた。

Photo

2011/07/11

地震雲か?

7月10日4時起床して散歩にでたいつもと違う空模様 空が異様に赤く燃えていた。
地震雲の写真を見たことがある。天と地は何かつながりが人間には分からない現象あると思う。
AM9時57分M7.3の地震発生仙台市青葉区で震度4 津波警報が発せられた。Dsc_0011_011_dsc_0011

またかと沿岸部の人たちの苦悩が私の心を乱す。

3月11日の巨大地震で人間の技術はゴミのように小さくそして政府自身も企業も原子力賛成の学者も声たからかに歌ってきた原発絶対安全の神話が核拡散を伴い吹き飛んだ。放射能は拡大の一途をたどり清浄な空気と地下水と豊穣な土とともに暮らしてきた農村の人たちが突然放射能と言う無色無臭の人間の作り出した放射能までもが平和に暮らしてきた人たちに襲った。土地・地下水・鶏・畑のある童謡の生まれるような素晴らしい故郷を追われてしまった。村落の人々の苦悩を思うとき私の心は大きな心の負担となる。原発人災事故による原子炉爆発し莫大な量の放射線が大気・海・大地を襲った。ために追われてしまうとは、あまりにも悲惨なことである。
依然として事故処理が収束しない。原発が作ったセシュウムが牛肉にも蓄積したという。そして食用として流通してしまったと言う。またまた恐ろしいことが起こってしまった。人間の内部被爆が始まったのだろうか政府からの情報はない。政治の混乱は国民を苦しめるばかりである。民社党も自由党もいらぬ原発事故収束と地震災害復興に力を尽くす人材がでる事を願うばかりである。新たな地震が誘発される確率が高いと言われている。自然エネルギの開発を急がなければならないのだ!

巨大地震前までは、都会では電気を使うことは良いことだと贅沢なオール電化住宅が飛ぶように売れていった。このことに不安を感じていた。本当にいいのだろうかと、
かつて、原発の事故を恐れる人たちを非国民的な眼で阻害されてきた。核燃料の処理技術もなかったとは!!!完全な安全神話崩壊である。核処理技術を勉強しながら対処するらしい。今の子供たちが成人したときこの難題が待っているのだろうか あまりにも無責任な政策ではないか。
自然も核も人間はコントロールできると思ってきた人たちが多かったようだ。
高度経済発展は人間破滅につながるような気がする。今ここで大自然の力を改めて知った。そして人間のあさはかな技術力・が科学の暴走崩壊に打ちのめされた。
復興に力をささげねばならぬときに。辞任した復興相のあの暴言を聞いて戦時中の私を思い出した。
「いいか やれよ わかったか!」 身震いがした。このことばに復興はないと思った。 

子供たちに将来に大きな負担をかけてしまったと。異常な朝焼けを見て思った。そして9時57分M7.3の地震が緊急地震速報がないまま襲ってきた。予測を出来なくなってきてしまった。
Dsc_0027_027_dsc_0027


2011/06/06

元素の美しさに潜むもの

Gennso_2
Theodore Gray著Nick Mann写真
「世界で一番美しい元素図鑑」
の第一版1刷10年11月20日発行
を私の傘寿の到達記念として購入した。
冒頭に書いてあった言葉が魂に焼きついた。
ルクレティウス「事物の本性について」(紀元前50年)の言葉である。
曰く
     いかなるものも、無に帰することはありえない
     万物は分解されて元素に帰する。

それによれば私の
     足は大部分が酸素で、そこに相当量の炭素が加わり有機分子構造を作り上げています。
     炭素系生命体の一種と規定されているわけです。
化学から生まれた原子力の力は偉大です。原子力発電所が地震津波によって炉心溶融という恐ろしいことに襲われてしまった。災害のときに威力を発揮する炉を安全に制御する周辺機器こそ原子炉と同じレベルに完璧に設置しバックアップ体制を強化しておかねばならないのですが疎かにしておったことが報道されています。
人間の考える「想定外」という言葉ほど不安定な災害をもたらす言葉だと思います。アルカリ金属が水と反応すると引火性の高い水素ガスが発生し大爆発が起こるという恐ろしい結果が待っています。
世界で一番美しい元素図鑑の記述のなかに
     「元素に正しい態度で接しないと化学はあなたにかみつきます」と!

3月11日午後人間のいう想定外の巨大地震が発生しこれに反応した巨大津波に東日本は襲われた。

化学に噛みつかれてしまった原発は。化学の反応を制御する周辺機器であるが、その機能が発揮されないまま炉心溶融が始まり水素爆発で建物も吹き飛びました。化学にかみつかれてしまった。

美しいものには丁重な扱いをしないと、人が想像できない力で攻撃されてしまうと思った。

子供たちはプールで遊ぶことができないという悲しい。節電にいくらかでも協力しようと対策をたてている、このごろである。電子レンジは使わないことにした。LEDランプに取り替える。ささえなことでもいいから何か協力しないと電気を使うことは日本経済に寄与して、いいことだと思ってきたことに後悔している傘寿を超えた我の呟きである。
いつもの散歩も元気のない足取りで歩くようになった。すれ違う小学校から下校する姿を見るにつけ申し訳なかったと思いながら「こんにちは」と声をかけられると眩しい思いもする。

2011/05/17

春の花に思いをこめて

千年に一回遭遇すると言う巨大地震に3月11日14時16分ころ東日本に襲った。16時36分福島第一原発原子炉事故発生した大­変なことになった。
春の花を見ないでこの世を去った東日本地震犠牲者の冥福を祈ります。

春の花は美しく咲いて交配が早く終わりそして散って行く。

より以前の記事一覧

幼少の記憶

  • Michio_2

少年時代の記憶

  • Photo_2

次世代の人へ

  • Photo_2

風景写真アルバム

  • Tirusakura
    散歩中の風景写真

こんにちわ

  • Bn_pink3_b

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