昭和12年私が尋常小学校一年の吹雪の日の登校の記憶は忘れ得ない。当時の積雪は3m位はあったのではないかと思う。私達は道路より3mも高い雪道を歩くことになる。電信柱の電線が右横に見えるように記憶している。町並みをはずれると砂山から吹き下る強風をともなった雪は睫毛に付着し白い睫毛となる。高学年の児童が先頭にして積雪をラッセルして一列縦隊で、ただ、もくもくと歩く、私の体は冷たく泣きたくなったが学校の校門が見える頃にはみんなの体から湯気が立つ、私も体が温かくなり元気がでていた。
教室に入るとダルマストーブに小使さんが火だねを入れていた「お早うございます」の挨拶をする。「今日も寒かったろう、もうすぐ暖かくなるよ」と笑顔で答えた。石炭がちょろちょろ燃え上がっていた。ストーブの脇に昼のお弁当を温めるための棚があった。
その棚に弁当を置くのであるがその場所は学童の勢力ある者が決める。当然
勢力のある者がストーブの熱を多量に受ける場所に入れるのである。相撲の番付みたいなものである。
お昼時間になると猛吹雪を乗り越え登校し腹を減らしている学童は一斉に弁当の蓋を開ける。横綱級の者の弁当からは湯気がもうもうと立っているフーフーいいながら食べ始める。しかし幕下級の者の弁当からは湯気は立っていない少しだけ暖まっているだけである。上位を占めている者は集落からの学童が多かった。私は町の餓鬼大将ではあったが集落の餓鬼大将には抑え込まれていた。
ときたまではあるが横綱から、おい「今日はここに入れれや」と最高の場所を提供してくれた。当時は陰惨ないじめなどは皆無であった。やさしがあった。
友と今日の遊びの仕方を話しながら下校する。自宅の玄関で「ただいま」と言うと同時にランドルセルを廊下にほおり投げ「スキーに行くよ」と大声で叫び竹スキーを持って裏山に駈けてゆくのである。
雪が降ると町並み砂山もすべて白一色の風景になる。冬の空は灰色となり薄暗い日が続く裏日本特有の天気である。時折太陽が顔を出す時には遊びが活発になるので心は躍った。
チャンバラは春秋に、夏は裏浜で海水浴が主体の遊びで冬はスキーである。私のスキーは竹で作った手製のもので、ただ竹を割っただけである。お金持ちの子はスキー靴を履き格好よく滑走している姿を見てうらやましかったことを覚えている。スキー場は家裏の砂山である
三月に入ると道路の雪が溶け出してくる日がある。これは春が近くにやってきたと告げている証拠である。冬国で育ったものでなければこの嬉しさは分からない。言葉では現わすことはできない。道路に土が見えてくると早速、長靴から高歯下駄に履き替え歩いてみる。
この感触も経験せねばわからない。それは長靴を冬場中履いていて歩くので、ときには滑るので注意しながら常に歩いているのである。高歯下駄に履き替えて着地するときの感触はまさに地球の引力を感ずるのである。足が大地にしっかり食い込んだ感じである。今でもこの感触の素晴らしさをしっかりと覚えている。春が大地から来たと思う瞬間でもある。
五月は端午の節句を迎える。男の子の成長を祝って揚がる鯉のぼりは、大きな家ばかりである。私は母に「鯉のぼり買って!」と何度も頼むが返事は何時も同じである。
「お隣の家は大きいでしょうお庭も大きいし、お金持ちなのよ うちはお庭も小さいでしょうお金もないし、大きな鯉のぼりは建てられないのよ」
私は諦められなかった。広告用紙の裏の白紙にマゴイとヒゴイの画を描きクレヨンで色づけしハサミで切り抜きそれを物干し竿の先端に付け門に紐で括り付けた。五月の風は暖かく優しく吹いている。私の鯉のぼりは紙製なので見事に旋回しながらオモシロイ泳ぎをした。隣の店屋の小母さんに「あら!立派な鯉のぼりね」と誉めてくれた私は有頂天になり母を呼んだ。「坊 やったはね いいわね 立派に泳いでるじゃないの」そして歌ってくれた
甍の波と雲の波
重なる波の中空を、
橘かおる朝風に、高く泳ぐや、鯉のぼり
私は嬉しかった 自分で作った鯉のぼりを誉めてもらった上に歌まで歌って貰ったことを終世忘れ得ない思い出である。高学年になって学校の音楽の時間に習った。母の歌ってくれた曲名は♪鯉のぼり♪であることが。
昭和16年4月1日から国民学校と改めるられた。男女共学制度導入された試験運用のためか1クラスだけが共学となった。私はそのクラスに指名された。男子・女子と一列交互の席である。私の前の席には同窓で一番と評判の可愛い子の席であった。毎朝登校するのが楽しくなったのは、その子は毎日黒い濡れ羽色の髪形が ・お下げ・編みあげ・おかっぱと変わるのである。私の目の前の子の髪形を美しいと思った。心ときめくとかそのような青春の感覚はなかった、ただただ女の子と言うものはこれほど髪型にこだわるのか不思議であると思ったのである。
確か70歳を迎えた同級会で その子が出席したので尋ねてみた、周囲の者も同じ疑問を持っていたと見え、聞き耳を立てていた。その子のお姉さんが毎朝、髪結してくださったとの事であった。
姉妹ではお姉さんの存在がありがたいことであることを知った。私の姉も優しかった。
生命時間を過ごすこと のタイトルで書き始めて6回続けきたがこれで終わりとしたい。理由は人生の流れで一番有用な時期の生命は誕生して小学校を卒業するまでであると思ったからである。
大正・昭和の尋常小学校の文部省唱歌教科書の童謡が今でも愛唱されています。当時文部省では学童達が大きくなり歳を重ねて行ったとき心に沁み入る童謡を思い出させ、過ぎ去った生命の歌をよみがえらせ生きる勇気与えるための童謡を 学童に教え込んだと聞いたことがある。
故郷・朧月夜・冬景色・春よ来い・里の秋 等々人生の生命が入り込んでいる詩・と曲ばかりである 仕事もすでに終わりすべてなし終えて78歳になんなんとする私は学童のころのことを思い生命時間を過ごすことのタイトルとしたのだった。
読んでいただいた多くの方々に感謝申し上げます。
生命時間を過ごすことその2の記事追記致しました。
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子供たちに伝えたい 日本の童謡 池田小百合著 実業の友社
234ページ あとがき
人生で、童謡との出会いは、三回あります。
一回目は幼児期です。母親や周りの大人が歌う童謡を聞き、覚えたうたを歌を歌うようになります
二回目は、成人して家庭を持ち子供が生まれたときです。自分が覚えた歌を子どもに歌ってあげるのです。演歌や軍歌ではなく、やさしい響きの童謡を歌ってあげると、子どもはその肉声にふれて心を成長させるのです。
三回目は、高齢になってからです。かって歌った童謡を聞くと、過去の楽しい思い出がよみがえります。苦しかったことも歌が癒してくれます
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