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2013年5月

2013年5月12日 (日)

幼少の頃の記憶

海は荒海、
 向うは佐渡よ、
    すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
    みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。
大正十一年の六月半ば、日本の詩人北原白秋は新潟市寄居浜を見て驚いた。そしてこう言ったと言う!!
砂山の茱萸(ぐみ)藪(やぶ)で、見渡す限り茱萸の原つぱでした。そこに雀が沢山啼いたり飛んだりしていました。その砂山の下は砂浜で、その砂浜には、藁(わら)屋(や)根(ね)で壁も蓆(むしろ)張(はり)りの、ちやうど私の木菟(みみずく)の家のやうなお茶屋が四つ五つ、ぽつんぽつんと竝(なら)んで、風に吹きさらしになつていました。その前は荒海で、向うに佐渡が島が見え、灰色の雲が低く垂れて、今にも雨が降り出しさうになつて、さうして日が暮れかけていました。砂浜には子供たちが砂を掘つたりImg_0128
、鬼ごつこをしたりして遊んでいました。日がとつぷりと暮れてから、私たちは帰りかけましたが、暗い砂山の窪みにはまだ、二三人の子供たちが残つて、赤い火を焚いてゐました。それは淋しいものでした。
「砂山」の詞は。
この砂浜が幼なき日の私の遊び場であった・。。。
この美しくも淋しさが四季を通(とお)して冬の影が潜む。この地に生まれ十九年間の人間形成の重要な時期を過ごした。故(こ)郷(きよう)は私の人生の基底である。
                            *
冬の海は時(し)化(け)ると、きまって地の底から突き上げる浪打の音と地鳴りがドドゥ~ドドゥと聞こえてくる。
海面を滑り流れてくる潮風が砂山を越えて町を包み込みむ素晴らしい住宅地があった。
父親はしがないサラリーマンをしていたのに無理をして、この町に小さな住居を構えた。
私の家族は父母・姉・兄そして末っ子の私の五人家族である。
家の前の坂を十メートル程、下ると新潟県立中学校のポプラ並木に囲まれた広いグラウンドがある。夕刻にこのグランドで思いっきり遊んだ。楽しみは秋の新潟県立中学大運動会である。戦時中とあって生徒達は眼をぎらつかせて戦う騎馬戦は見ていて、恐ろしく、手を握りしめ凝視していた。生徒達の体からは男子特有の匂いが放射していた。
作家 坂口安吾 氏、がこの学校で勉強していたことで知られている。
授業をよく、さぼって砂山の松林にねころんで海と空をボンヤリ眺めていたという。そして放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であったと「風と光と二十の私」の本に記されていた。
日本海の春の海は江戸時代の俳人・与謝蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」の俳句と見事に似合う。
我が家の前の道路を通り角屋さんのところを右に曲がってまっすぐに砂丘に上り。茱萸(ぐみ)藪(やぶ)と植林したばかりの黒松の林を進み一つ目の砂丘を越えて、、二つ目の砂丘の頂上に立つと、そこには雄大な日本海の眺望が展開しているのである。。晴れた日には海(うな)坂(さか)に佐渡ヶ島が浮んで見える絶景である。

 

私は地平線のことを海坂と記したのは 藤沢周平著「小説の周辺」の記事に次のような文があったからだ。「・・・海辺にたって一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を画く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である・・・」とあった。」日本海のあるかなきかのゆるやかな傾斜弧は佐渡が島によく似合う言葉だと思った。

砂丘を下りてから 二百メートルも平らな砂浜を行くと渚に着く、よせては退き、退いてはよせる穏やかに一日中ゆったりとうねっていて、まことにのどかな、この波打ちと遊んだ。
近所の悌二ちゃん・総子ちゃん・正夫ちゃん・茂雄ちゃんと一緒に。
                             *
私が赤ん坊のころ、姉に可愛がられた。母が病弱であったので七歳年上の姉が、私をおんぶしてくれ面倒を見てくれていた。母も姉も私のことを「坊や」と呼んいた。末つ子は名前で呼ばれないのだった。
九十歳になった姉は、 八十二歳になった私を坊やと呼ぶのである。知らぬ人が聞いたら気違いと思うだろう。
十歳のころの記憶は鮮(せん)烈(れつ)である。 向かいの家は黒塀に囲まれた綺麗な日本家(か)屋(おく)であった。いつも上品な着物を着た美しい小母さんが一人で住んでいた。時々身なりのよい小父さんを見かけた。
その小母さんに私は特別に可愛いがられていた。遊び疲れて帰ってくる姿を見るにつけ、小母さんは「坊、坊、汚いわね~お風呂が沸いているから入って行きなさい体洗ってあげるから」たいてい、この声が、かかる時には、小父さんは、いない日である。母からは、小母さんから誘われても、いっちゃーだめよ!と、きつく言われていた。私はいつも母に叱られるのを覚悟して、誘いに乗った。お風呂を上がってからお菓子も頂けるのが、なにより楽しみだった。
お風呂で小母さんは私の首筋に、こびり付いている垢を”へちま”に、香りのよい石鹸を泡立てて丁寧に洗ってくれた。母の場合はもっと手荒く洗濯石鹸で洗うので異様な臭いがする。小母さんの家の風呂桶は長四角の銅板で縁どられ檜の香りが漂う、とても、心地よかった。
小母さんの白い手はしなやかで優しく洗ってくれた。首筋が白く長いと思った。首筋のことを、”うなじ”と呼ぶこと知ったのは十五歳になったころだろう。”おチンチンの脇に黒い毛がチョロチョロ生えてきたころだっと思う。
お風呂をあがってから叔母さんは茶の間に導き綺麗な座布団にちょこんとお座りし、きょろきょろ部屋を見回す。家の茶の間より綺麗だしまたお白粉(おしろい)の香りもする。床の間には字のかいてある掛け軸があり、楽器みたいのがあったので小母さんに聞いた。
「坊、これはね三味線だよ弾いてみようか」私には奇妙な音だ感じた。お菓子を食べながら聞いていた。お菓子の方に心は集中していた。
玄関から母の声が聞えた。「また坊や来てしまったようですね。いつもすみません」
「私が無理に誘ったのですよ。叱らないでくださいね」私は良かったと安堵した。
私が成人してから知ったことだが、小母さんは芸者育ちのお妾さんであったと聞いた。
小父さんが来ているときには誘いが無かった理由を知った。
小母さんの隣の家が茂雄ちゃんの家だった。お母さんがお妾さんだと聞いた。我が家の裏の家もお妾さんだと聞き、なにかお妾さんの家に取り囲まれた居るように思えた。
                                  *
家の左隣三軒目は小さな魚屋さんである。魚屋の小父さんはいつも捩り鉢巻をし結び目を右耳の上にして威勢のいい格好で魚をさばき、お刺身をお皿においしそうに盛りつけしていた。魚屋さんには子供がいなかった。私は小母さんにも可愛がられていた。そして小父さんの包丁さばきを刺身料理が出来上がるまでジット見つめていた。刺身の端の切り身を私の口に入れてくれた「坊や 美味いか」私は大きく頷いた。このときの魚は日本海で取れる「きす」という名の魚であることを母から聞いた。私はたびたび遊びに行っては刺身の切れ端を口にしていたのである。美しく皿盛りされた刺身は小母さんが配達していた。
家に帰って「母ちゃん、魚屋さんの刺身食べたいな」と言ったら「坊やは母ちゃんが作った刺身食べているでしょう」;;;「魚屋さんの小父さんの刺身と違うよ 小父さんのは美味しいよ」
「魚屋さんのお刺身はね、お金持ちの家からの注文なのよ。、とても、お金がかかるのよ!」
母は淋しい顔をして答えた。
小父さんと小母さんは家の風呂を貰いに来ていた。そのときはいつも頭(かしら)付の骨だけ付いている魚をぶら下げて「奥さん今日は鰤だよ」母はいつもすみませんね~と言っていた。
魚屋さんの家には内風呂がなかったのである。
魚やさんの左隣がお菓子・雑貨のお店であった。この家を頂点として道路は左右に分かれているのである。弓矢の矢じりに当たるところと同じである。それで、店の名前は角(かど)屋(や)と呼ばれていた。そのころ電話と言えば お医者さん・重役さん・お店屋さん等、電話が必要な家しか設置していなかった。魚屋の小父さんの家は、角屋さんの倉庫を改装したお店であった。魚の電話注文は角屋の小母さんが取次していた。時々私の家にも角屋の小母さんか、私と同い年の総子ちゃんが電話が来ていますよ、と取り次いでくれていた。
のどかな時代であった。底辺に強い太い心の絆があった。
私は角屋の小父さんにも小母さんにも可愛がられていた。夕刻、砂山で遊びから帰る道順が角屋の店の前を通るのである。私を認めた小母さんから声がかかる、時たま「坊や 夕飯一緒に食べて行きな」と誘ってくれる。「うん」私は一目さんに家に飛び込むなり「母ちゃん角屋のおばちゃんが・・・」母は知っているよ、と言って私の汚れた服を取りかえて顔をプリプリしてから「お行儀よくいただくのよ」と注意されてから出かける。小父さん小母さん総子ちゃんと私4人で夕御飯をいただくのである。私は遊(あそび)のことなどを夢中で得意になって話していた。
小父さんは男の子が欲しかったことを後で母から聞いた。小父さんが配達するときの
自転車は前ハンドルと後部に荷物籠が付いている。ときたま私と出会うと「坊や籠にのれや」と言ってくれ前籠の荷物を後部籠に移して私を前籠に乗せ配達にでかけるのであった。見上げて見る、小父さんの眼は細くて優しかった、顎鬚が黒くのびていたことが印象にある。当時の道路は砂利道である。ハンドルが左右に揺れる 私はキャーキャー叫び歓声をあげた。配達が終ったある日、小学校の近くにある競馬場に連れて行ってもらった。黒松林に囲まれていた競馬場であった。見物するだけなら馬場の土手に寝転がって観戦できる、のどかな競馬場である。団子売りが「団子いらんかね~」と言って天秤を担ぎ黒松林を縫うようにして来た。醤油団子と餡子団子二本買って貰って食べた とてもとても美味しかったことが強い記憶として残っている。レースが始まると何番の馬が勝つか賭けをした。その日の成果を母に得意になって報告するのである。母も嬉しそうに聞いてくれた。
                           
  、夏は毎日海水浴に行った。砂浜は強い太陽が照りつけ砂地は熱せられており砂漠のようになる。草履を履いていも足裏が焼けるように熱いので飛び跳ねながら渚まで走る。砂漠を飛び跳ねて走るミリタリーサンドドラゴンと同じようだと想像した。。
夏の海は遊ぶことがいっぱい詰まっている。足の先で海底の砂ををまさぐりながら、ハマグリを探(さぐ)る。あたると、足の指にはさんで取る。砂浜で薪を集めて火をつけてハマグリを焼く、貝の蓋がぱかっと開くと、箸でつまんで海水にしたして食べる。とてもうまいのである。   
                                 *
小学校に行く歳を迎えた。小学校入学のための身体検査が学校の医務室で校医により行われることになった。私は母に手をひかれながら学校に向かった。家から南へ2.5kmの砂利道を歩く、500m行けば家並みはなくなり畑が連なる。右手300mには砂丘が見える。これを越えれば日本海である。学校までの道路は日本海と並行している。だから日本海からの春のやさしいし潮風が頬を撫でてゆくのである。菜の花畑や西瓜畑がつらなっている。母は歌えながら、私の手を握り腕を大きく振って歩いた。高学年になってこのとき歌っていた歌は「おぼろ月夜」であったことを知った。忘れえぬ思い出の大好きな歌となった。
校医が私の耳を見て「これは!お母さんこの子の耳垢を見てあげなかったのですか?」母はこの子は暴れん坊で絶対嫌がるんですよ!と言っていたようだ。校医は耳垢をつまみだして母の掌に乗せた。母は驚いた顔をして取り出された茶色の塊を見詰めていた。耳穴がほとんど垢で塞がっていたのである。
帰り道の音の風景は全く変わった!!。私は「母ちゃん海の方から聞こえる音は波の音か」
「あら!坊や聞こえなかったの 良かったわね 今度からは暴れないで耳垢、掃除させてね暴れて鼓膜を破いたら大変なんだから」
このときの驚きは今も耳掃除をする度に思い出す。
母の歌声は登校時より、ずっと綺麗に、はっきり聴こえた。
あの思い出から七十五年を経た、私の聴覚は聞こえが悪くなり、なおかつ耳鳴りがうるさくなってきているが。脳にはこの時の音を鮮明に、かつ高音質で録音されているのである。

 

登校時には各町内の学童ごとに、かたまって道草くいながら、ふざけあって行くので時間を充分取って自宅を出るように自然と時刻が設定されていた。学校をめざして各町内ごとのグループが校門をくぐるのである。
学校を取り巻くようにある畑は地主さんから土地を借りて農業をされて居る人達が相当、昔から集落を形成していた。だから言葉もアクセントも違うのである。ここから通学する勇君と気があったのか言葉をよく交わすようになっていた。
ある日、勇君は私に問いかけた「な、うち、いんが、いっか」と言った。私には通じないのでポカンとしていた。また少し語気が強くなって「なうちいんがいっか!」その怒ったような語気に恐れをなした私は黙って理解できぬまま頷いた。勇君はニッコリして今度の日曜日「なうんちにゆくから」と言う。私は、また だまって頷いた。なにがなんだかわからないまま日曜日に勇君と遊ぶことだけは分かった。
元気ない声で「ただいま」と言った。シェパード犬で名前はドロップがワンワンとシッポ振って吠えてくれる。元気のない「ただいま」を不審に思ってか、「母はなにかあったの?」と言う、私は事の次第を話した。
母は笑いながら通訳してくれた「お前の家に犬がいますか」日曜日に遊びに行くから犬を見せてくれ と言う事よ 私は犬のことをインガという言葉を知った、ようやく理解でき勇君が家に遊びに来たらドロップを連れて裏の海辺で遊ぶ計画をたてた。母はお弁当を用意するよ。と言ってくれた。嬉しい、元気が出た。ドロップは軍用犬として訓練されているので学童の私でも命令すればよく従うドロップであった。
                              *
そのころの家の裏窓からの風景は、もやし畑が二00メートルくらい続いているその先は高さ五メートルくらいの砂山が海岸線にそって横に広がっているのが見渡せる。ニセアカシヤの木や黒松が植林されて数年しかたっていなく樹高は低かった。ニセアカシヤの木だけは4m位のものもあった。この木はチャンバラごっこのための必須の道具である刀らしい枝ぶりを探し、折って樹皮を?く、そのときのアカシヤの青臭い独特の香りをいまでも忘れられない。長刀・短刀を作り母が仕立ててくれた着物の帯に重々(おもおも)しくゆっくりと差し、足袋を履くと、心は、いっぱしの武士になったと思い込んでいた。 小(こ)刀(がたな)で枝を切っているとき、手元が狂い太(ふと)腿(もも)に、小刀の切っ先が刺さり血がでたが手ぬぐいで縛り止血した。その傷跡は今でも残っている。懐かしい傷である。
このチャンバラ遊びも紙芝居のおじさんの拍子木の音が聞こえてくると同時に、チャンバラは即中止し戦場の砂山から町の道路脇に設置される紙芝居の場所に刀を引っさげて、走る。そこには小さい子供たちが集まっている。私は背の低い子を前に整列させ背高の順に見物席が出来あがる。小父さんは黄(きな)粉(こ)飴(あめ)を観覧料と引き換えに渡す。大きな楽しみであった。
町内の子供を集めては夕刻までいろいろの遊び方を見つけてはよく遊んだ。
「時々母に注意された。悌二ちゃんが帰ると言った時にはすぐ帰すのよ」私は町内の餓鬼大将になっていた遊びの途中から帰る子には厳しく注意していた。
ある日、遊びから外れた子の家に行き、その子のお母さんに談判に行ったことがあった。母にそのお母さんから苦情があったと、大きくなってから聞いた。しかし記憶はない。母はお菓子折を持って謝罪に行ったと言う 私の記憶にないのは母が私を叱らなかったからであろう。叱られたことは記憶しているのだから。
Yuuhi



帰宅の促す声が各家から聞こえてくる(マサオ~帰れ~~ゞ・・・・)夕刻近くまで遊んだ。私は一人になっても明日の遊びを計画するのが好きだった。刀になりそうな枝ぶりを見定めたりして時間を忘れていた。うす暗くなったころ、帰ってこない私を姉が迎えにきて「坊やもう帰りなさい!」と叱られることがたびたびであった。
秋の陽は一気に落ちて行く、夕日は砂浜、家並み、空気までもが、薄い赤色に染めて行く。

電線に赤とんぼが同じ方向に整列してとまる。赤い電線となる。空中には鬼やんま・塩カラトンボ等が、すいすい行き交う 光景は心にに響く。トンボを捕獲する方法は、糸の両端に石を結ぶ 砂利道であるので捕獲用の石には不自由しない。細長い石がよいのである。両手で左右の石を持って鬼やんまが飛来する寸前に上空高く放り上げる。トンボは石を虫と思って飛びかかるその瞬間、糸が羽根に絡まれば成功である。成功率は高くはなかったが、成功した子供の歓声が一段と大きい。 家に帰って昆虫の標本にするのである。トンボの美しい色彩を放つ姿を夜遅くまで眺めていた。

日が落ちる頃になると、決まって畑の肥料を荷台に満積した牛(ぎゆう)車(しや)が肥料のくさい臭いを発散させながら砂利道に車音を大きく軋みながら通る。ときおり、牛は大きな尻尾を振り上げると同時に巨大な糞をボトボトと砂利道へ落す。
トンボを捕獲できず機嫌が悪かった私は腹いせに牛の大きな糞(ふん)を板きれに乗せ、空高くフォリ上げた。
その落下してきた糞がまともに私の天を見上げている顔にビシャリとホットドック状に付着したのである。友はキャーと言って逃げて行った。泣きべそをかきながら家に飛び込んだ!母は仰天した。 夕飯の支度中であった母は強く叱り、外に連れ出されバケツでお風呂の湯を頭から浴びせられた。洗濯石鹸でごしごし時間をかけ洗浄された。母も私も臭い臭いと連呼し続けであった。
牛の臭いは数日たっても皮膚に染み込んで取れないものであることを知った。今でも脳は、その臭いを、はっきり覚えているのである。いまでも牛を見かけるたびに思いだす。なつかしい。
  雪が降ると町並みも砂山もすべて白一色に染まる。空はどんよりとした厚い灰色の雲に覆われた風景となる。冬は薄暗い日が続く裏日本特有の気候となる。ときおり太陽が顔を出す時には遊びが活発になる。
私が尋常小学校一年生の吹雪の日の登校時の記憶は鮮明である。道路より三メートルも高い雪道を歩くことになる。電信柱の電線が右横に見えた。町並みをはずれると砂丘から吹きつける吹雪が、顔を襲い白い睫毛となる。高学年の児童が先頭にして積雪をラッセルして一列縦隊で、ただ、もくもくと歩く、私の体は冷たく泣きたくなったが学校の校門が見える頃には、みんなの体から湯気が立つ、私も体が温かくなり元気がでていた。校舎の床も冷えている。靴下だけで歩く。裸足の子も多くいた。運動靴などない時代である。
教室に入るとダルマストーブに小使さんが”火だね”を入れていた「お早うございます」の挨拶をする。「今日も寒かったろう、もうすぐ暖かくなるよ」と笑顔で答えた。石炭がちょろちょろ燃え上がっていた。ストーブの脇に昼のお弁当を温めるための棚があった。
その棚に弁当を置くのであるがその場所は学童の勢力ある者が決める。当然
勢力のある者がストーブの熱を多量に受ける場所に入れるのである。相撲の番付みたいなものである。
お昼時間になると猛吹雪を乗り越え登校し腹を減らしている学童は一斉に弁当の蓋を開ける。横綱級の者の弁当からは湯気がもうもうと立っているフーフーいいながら食べ始める。しかし幕下級の者の弁当からは湯気は立っていない、少しだけ暖まっているだけである。上位を占めている者は集落からの学童が多かった。私は町ではの餓鬼大将ではあったが集落の餓鬼大将には抑え込まれていた。
ときたま、横綱から、おい「今日はここに入れれや」と最高の場所を提供してくれた。当時は陰惨ないじめなどは皆無であった。やさしがあった。
友と今日の遊びの仕方を話しながら下校する。自宅の玄関で「ただいま」と言うと同時にランドルセルを廊下にほおり投げ「スキーに行くよ」と大声で叫び竹スキーを持って裏の砂山に駈けてゆくのである。
私のスキーは竹で作った手製のもので、ただ竹を割っただけである。お金持ちの子はスキー靴を履き格好よく滑走している姿を見てうらやましかったことを覚えている。スキー場は家裏の砂山である。
三月に入ると道路の雪が溶け出してくる日がある。これは春が近くにやってきたと告げている証拠である。冬国で育ったものでなければこの嬉しさは分からない。言葉では現わすことはできない。道路に土が見えてくると早速、長靴から足(あし)駄(だ)に履き替え歩くのである。 この感触も経験せねばわからない。それは長靴を冬場中履いていて歩くので、ときには滑るので注意しながら常に歩いているのである。足駄に履き替えて着地するときの感触はまさに地球の引力を感ずるのである。足が大地にしっかり杭いこむ感じである。今でもこの感触の素晴らしさをしっかりと覚えている。春が大地から来たと思う瞬間である。
五月は端午の節句。男の子の成長を祝って揚がる鯉のぼりは、大きな家ばかりである。
私は母に「鯉のぼり買って!」と何度も頼むが返事は何時も同じである。

 

「お金持ちの家だけなのよ。家は、お庭も小さいでしょう お金もないし、大きな鯉のぼりは揚げられないのよ」
私は諦められなかった。広告用紙の裏の白紙にマゴイとヒゴイの画を描きクレヨンで色づけしてハサミで切り抜き、それを物干し竿の先端に付け門に紐で括り付けた。五月の風は暖かく優しく吹いている。私の鯉のぼりは紙製なので見事に旋回しながらオモシロイ泳ぎをした。隣の小母さんに「あら!立派な鯉のぼりね」と誉めてくれた。私は有頂天になり母を呼んだ。「坊 やったはね いいわね 立派に泳いでるじゃないの」そして歌ってくれた。
♪甍の波と雲の波
重なる波の中空を、
橘かおる朝風に、高く泳ぐや、鯉のぼり ♪
私は嬉しかった 自分で作った、鯉のぼりを、歌って褒めてくれたのだ。学校の音楽の時間に習った。母の歌ってくれた曲名は♪鯉のぼり♪であることを。

 

野菜売りの小母さんが定期的に荷車を引いてやって来る。そして大きい声で「奥さん野菜果物いらんかね」遊びにまだ行かなかった私は、母ついて荷車を覗き込んだ。高級品のバナナをみて「母ちゃんバナナ買ってくれよ」「ダメ」一撃に却下された。ベソをかいた、とたん、アシナガ蜂が私の頭のてっぺんに毒針をさした。「痛い!」大泣き!追い打ちをかけるように顔が赤く膨れ、上唇がめくり上がった。凄い形相になった私の顔を母と小母さんはみて青ざめた。角屋の前のバスの終点停留所に運良くバスが発車待ちをしていた。母は私を抱いてバスに乗った。角屋の小母さんも心配そうにしていた。
皮膚科に飛び込んだ。医者は私の血液を取り頭に注射した。数時間後顔の腫れも、上唇の捲りあがりもなくなった。もうバナナは嫌いになった。
それ以来私は上唇をひっくり返す特殊なことができるようになった。姉は大笑いし何度も唇をひっくり返すことを要求しそして笑った。
                            *
昭和十六年四月一日から国民学校と改められた。男女共学制度が導入された。試験運用のためか一クラスだけが共学となった。私はそのクラスに指名された。男子・女子と一列交互の席である。私の前の席には同級で一番と評判の可愛い子の席であった。毎朝の登校するのが楽しくなったのは、その子の髪の毛は真っ黒で光っていた。髪形が ・お下げの日・編みあげの日・オカッパの日と変わるのである。私の目の前の子の髪形を美しいと思った。ただただ、女の子と言うものはこれほど髪型にこだわるのか不思議であると思ったのである。美しい黒髪と黒板の両方が見える、私の席であった。。
確か七十歳を迎えた同級会で その子が出席したので尋ねてみた。周囲の者も同じ疑問を持っていたと見え、聞き耳を立てていた。その子のお姉さんが毎朝、髪結してくださったとの事であった。そのお姉さんは亡くなられたと聞いた。
そして、思えもかけないことを聞き私は言葉を失った。
「あなたが、三、四年ごとに、お偉くなってることを、聞いて懐かしく思って居ましたよ」と!

 

人生の流れで記憶に最も大きく刻み込まれる情報は、小学校を卒業するまでの事象である。
幼年時代の友は魂の友である。忘れ得ぬ友である。
会社の友は敵であり職場は戦場なのである。友人だと思って居た山崎君は会う度毎に「心許せる友人は君だけだ」といっていたが、ある人から「君のことを、くだらない」と言ってたぞ、と聞いた。そのほか、たくさん 暗黒の事柄と遭遇した。人間の吐く言葉は悪魔と思った。

 

平成十二年十二月肝臓を患って入院していた私の魂の友、悌二君から電話があった。沈んだ声で言った。
「これから手術だ元気が出ない・・でな~声を聞きたかったよ」私は「そうか」といったぎり言葉が見つからなかった。じゃあ~と言って受話器を置く音が聞こえた。数日後、私は、お会いしていない息子さんから電話が入った。父が逝去しました。父の財布の中に私の名前と電話番号を記したメモ用紙が入っていたのでご連絡致します。。父とのご関係は?と問われ、私は即座に答えた 魂の友です。
魂の友との別れは言葉が見つからないほどの寂しさが襲い。彼に言っておきたいことが言えずに先に逝ってしまった。

 

   遊びは戦 争ごっこになっていた。日曜日には私は母から飯盒を作ってもらい毎日出征したつもりで家を出ていた。飯盒は昼食である。ガキ大将であった私はいつも戦争ごっこでは大将の位である。兵隊は六人と看護婦は、たしか三~四人で、家の裏が松林の砂山が戦場であった。
敵は松の幹に括り付けた藁の束を敵に見立てた。兵隊の武器は竹槍だ、大将の私はチャン
バラに使ったニセアカシヤの枝の剣が軍刀と呼び名が変わっていた。
尋常小学校五年生になっていた私は制服の襟に大将の肩章をボール紙で作って張れば身も心も大将になった気分となる。戦いが始まった。部下に攻撃命令を下すと大将は先頭に立って敵に突進して袈裟斬りにする。
そのとき敵はピストルを発射し、わが腕を貫通する!!と推察するのであった。その結果
如何に!
そう・・倒れるのである。看護婦が、かけつける・・葉っぱをガーゼにみたて治療するのであった。看護婦の匂いは格別な匂いだと感じた。

 

「大将は突撃命令を下しておいて、すぐ倒れて看護婦を呼ぶ おかしい」と、いい年になった頃に、この言葉を悌二君はいつも会うたびに言っていた。
悌二君はきっと、うらやましかったのではないだろうか。悌二君は負傷をしたいと思ったのではないだろうか。
大将の私が、悌二君に先頭出撃命令を下しておけば良かったと悔いている。悌二君に教えてあげたいと空を仰ぐ。

 

私の脳内には動脈瘤がMRIで確認されていて一年に一回 要 観察検査と脳外科医から告げられている。
魂の友に会える日もそう遠くではないとおもう。           
                                   おわり

 

 

 

 

 

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